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荒岩 亀之助(あらいわ かめのすけ、1871年3月1日 - 1920年9月3日)は、鳥取県西伯郡大山町出身の元大相撲力士。本名は山崎 徳三郎(やまざき とくさぶろう)。 == 来歴 == 1871年3月1日に樵の二男として生まれる。子供の頃から家業を手伝っていたので自然に足腰や腕力が鍛え上げられ、相撲も好きだったので土地相撲で強豪力士として活躍した。そんな徳三郎少年を見出した大坂相撲の関係者からスカウトされ、1891年に陣幕部屋(大坂相撲)へ入門、「真竜」の四股名で初土俵を踏んだ。しかし、ある時に銭湯で兄弟子の背中を流していたところ、「流し方が悪い」と殴られたことに立腹し、すぐに大坂相撲を脱退すると同時に上京、大戸平廣吉が親方として経営する尾車部屋(東京相撲)へ入門、1894年1月場所において三段目付出で東京相撲での初土俵を踏んだ。 従来からある力士としての素質と猛稽古で磨きをかけ、入門から僅か2年後の1896年5月場所に新十両昇進、同時に四股名を「荒岩」と改名した。十両は僅か1場所というスピード出世で、1897年1月場所で新入幕を果たした。新入幕の場所ではいきなり小錦八十吉(初代)を破って7勝1敗1分の好成績を挙げると、翌場所も小錦を撃破するなど「小錦キラー」として活躍した。それによって番付も1898年1月場所では小結、同年5月場所では関脇とトントン拍子で出世していき、前頭筆頭に陥落した2場所を挟んで7年半にわたって三役の座を守り続けた。 当時は優勝額掲額制度の導入前だったが、優勝相当成績を入幕2場所目から1901年5月場所までの4年・8場所の間に4度記録している。それにも関わらず大関昇進が果たせなかったのは、梅ヶ谷藤太郎(2代)・大砲万右エ門が上位に存在していたこともあるが、当時は「小柄な力士は大関に相応しくない」という考えが根強かったことが不利に働いたとされている。 荒岩の大関昇進は1905年5月場所、國見山悦吉と同時昇進だった。小結から関脇を通り越しての昇進だったが、1904年1月場所において、「梅常陸時代」として明治時代後期の相撲黄金期の主役とされる梅ヶ谷藤太郎(2代)・常陸山谷右エ門が横綱に同時昇進、それによって大関が空位となって4場所目のことだった。新大関の場所では9戦全勝(当時の幕内力士は千秋楽(10日目)に出場せず)で5度目の優勝相当成績を挙げたが、以後は持病のリウマチが悪化したため急速に衰え、1909年1月場所を最後に現役を引退した。引退後は年寄・花籠(8代)を襲名し、1920年9月3日の死去まで弟子の育成に努めたほか、勝負検査役を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「荒岩亀之助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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