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木下 重堅(きのした しげかた、天文17年(1548年)? - 慶長5年(1600年)11月13日?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。官位は従五位下備中守。通称平太夫。室は磯部豊直の妹。 ==経歴== 織田氏の家臣で摂津国国主・荒木村重の小姓として仕えた安都部弥市郎が、村重の命により摂津国有馬郡の三田城(車瀬城)に入城するとともに荒木姓を賜り荒木平太夫重堅と改名する。また、荒木新助勝元の子で天文年間に父が戦死し、叔父の荒木村重に養育されたともいわれる。 村重が主君の織田信長に謀反を起こし(有岡城の戦い)討伐されると、三田城を明け渡し宮部継潤の与力となり羽柴秀吉に仕えた。そのもとで播磨長水城攻めで城主宇野祐清を斬る戦功を立てたため木下姓を名乗ることを許されて、因幡国若桜(八東・智頭2郡)2万石(一説には3万石とも)を与えられた。天正15年(1582年)、従五位下備中守に叙任時に秀吉の諸太夫となる。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与し、伏見城の戦い、大津城の戦いに参戦。特に伏見城では、次男小平太を戦死させるほど奮戦した。だが、9月15日の本戦で西軍が壊滅したために自害した。『因幡民談記』によれば重堅は慶長5年11月13日、長男重純とともに摂津天王寺にて自刃したという。また、10月13日に摂津一心院で自害したとも伝わる。ただ、重堅の居城の若桜鬼ヶ城は同年9月~10月頃には亀井茲矩によって開城させられていたという史料も存在しており、重堅の自刃時期は諸説あり定まっていない。墓所は、若桜、西方寺。法名は宝勝院殿備州太守有山道無大禅定門。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木下重堅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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