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荒木 村次(あらき むらつぐ)は、安土桃山時代の武将。 == 生涯 == 摂津池田氏の家臣・荒木村重の長男として誕生。元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで茨木氏が滅亡すると、父から摂津国茨木城主に任命されたが、実質的な城主は荒木氏家臣の中川清秀で、天正5年(1577年)に清秀が正式に茨木城主となると、村次は尼崎城(大物城)に居を移した〔『寛永諸家系図伝』にも「摂州尼崎城に居す」とある。〕。 天正6年(1578年)に父が織田信長に反逆した(有岡城の戦い)際、父に協力して有岡城を守っていたが(村次は、前述の通り、明智光秀の娘を正室に迎えていたが、この時に離別し〔、後に倫子は明智秀満の正室となっている)、茨木城を守備していた中川清秀が信長に帰順したため、荒木方は不利となる。天正7年(1579年)9月2日、有岡城より逃れてきた父・村重を自身の尼崎城へ迎え入れる。11月19日に信長より「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を取り付け、説得に来た荒木久左衛門らを村重は受け入れなかったため、村重・村次父子は荒木元清のいる花隈城に移り(花隈城の戦い)、最後は毛利輝元を頼って逃亡した。 天正10年(1582年)の信長の死(本能寺の変)後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると、秀吉に昔の罪を許されて家臣に迎えられる。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに羽柴方として参戦したが、足を負傷して以後は戦場に出ることは無く、代わりに弟の村基が仕えた〔〔ただし、村基は早世している。〕。村次自身はその後も大坂に住み、秀吉には折に触れ謁した。秀吉死後は、徳川家康に召抱えられる最中に死去した〔〔。 正確な没年は不詳だが、38歳で死去しており〔〔、そこから逆算すると生年は永禄4年(1561年)頃と推定される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「荒木村次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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