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荒畑 寒村(あらはた かんそん、1887年(明治20年)8月14日 - 1981年(昭和56年)3月6日)は、日本の社会主義者・労働運動家・作家・評論家。日本共産党と日本社会党の結党に参加するが、のち離党。戦後1946年から1949年まで衆議院議員を務めた。本名は勝三といった。 == 来歴 == 神奈川県横浜市永楽町の横浜遊郭内で生まれる。幼少期を現在の横浜市港南区野庭で過ごした。高等小学校卒後、外国人商館でボーイとして働き、キリスト教に改宗。横須賀の海軍工廠に勤務する中で、『萬朝報』紙に堺利彦と幸徳秋水が共同で書いた反戦詩・退社の辞に感動して労働運動に参加。秋水と堺が発行する週刊『平民新聞』の非戦論に共鳴し、社会主義に接近する。 その後、堺利彦の世話で牟婁新報での新聞記者を経て平民新聞の編集に参画。同紙で同僚だった6歳年上の管野スガと内縁を結び、1907年に結婚した。1908年、赤旗事件で検挙されて裁判で有罪となり、重禁錮〔旧法における刑罰。現行刑法の有期懲役に相当。〕1年。入獄中にスガとは離婚。女性の側から三行半をたたきつけられた格好となったので、寒村は激怒し、2年後に出獄するとピストルを入手してスガを射殺しようとするが、果たせず、代わりに桂太郎首相の暗殺を企てたといわれるが、いずれも実行できなかった。しかし幸徳秋水(管野の内縁の夫)とも疎遠になったことで、結果的に幸徳事件(大逆事件)での検挙・処刑を免れた。 寒村は出獄後、1912年に大杉栄と『近代思想』を創刊、さらに月刊『平民新聞』を発行するが、サンディカリズムを唱えた大杉とマルクス主義に立脚する寒村との対立が次第に表面化。大杉と訣別して後は労働組合活動を続けながら、関西で活動。1920年に日本社会主義同盟・1922年に日本共産党(第一次共産党)の創立にそれぞれ参加する。しかし1923年の第一次共産党事件で堺利彦とともに検挙され、翌1924年には、寒村によるほぼ唯一の反対論を押し切って共産党解散決議がなされてしまう。こののち寒村は、残務整理のため設置された「ビューロー」に参加し、あくまで党再建をめざそうとするが、ビューローの中で福本和夫の党理論(福本イズム)の影響力が増してくると次第に党再建活動から距離を置くようになった。福本イズムへの疑問を露わにする寒村は、福本の圧倒的影響下にあった若手活動家から激しく批判・誹謗された。 その後共産党は、福本イズムに沿って再建(第二次共産党)されるが、結局のところ寒村は、第一次共産党の解散に賛成した人々(佐野学や徳田球一など)が再建の中心になっていることを憤り、愛弟子ともいえる鍋山貞親の説得を泣いて拒否し党の再建には参加しなかった。そして山川均・猪俣津南雄らと1927年に『労農』を創刊、労農派の中心メンバーとして非共産党マルクス主義の理論づけを行った。日中戦争が始まると反ファシスト運動を主導した日本無産党にも参加した。しかし1937年に人民戦線事件で、山川・加藤勘十ら400名以上とともに検挙され、終戦まで投獄された。 戦後は全金同盟の委員長に就任するとともに日本社会党の結成に参加。1946年以降衆議院議員を2期(中選挙区の東京4区選出)務めた後、1949年1月総選挙では社会主義政党結成促進協議会(いわゆる山川新党)を母体に無所属で立候補したが落選する。以後は評論活動に専念し、1950年12月ソ連の評価をめぐり小堀甚二と山川均、向坂逸郎らの間で対立が起きると、小堀の主張に賛成はしなかったが小堀が山川新党の実務を担っていたこともあり、小堀に同情して1951年結成の社会主義協会には参加しなかった。60年代後半以降には、ソ連派傾向を鮮明にした向坂逸郎・社会主義協会を強く批判した。 晩年には「死なばわがむくろを包め戦いの塵に染みたる赤旗をもて」という歌を作っている。1981年、93歳で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「荒畑寒村」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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