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荒谷 卓(あらや たかし、1959年(昭和34年) - )は、武道家(明治神宮武道場至誠館 第3代館長)、予備役ブルーリボンの会幹事。元陸上自衛官(陸上自衛隊特殊作戦群初代群長)。 == 経歴 == 秋田県立大館鳳鳴高等学校、東京理科大学卒業。荒谷家は、金鉱山の採掘事業を通じて奥州藤原氏に仕えた家系である〔〕。理科大生時代は人工衛星等のリモートセンシングを専攻。理科大在学中は主に極真空手流山道場で空手を稽古し、明治神宮の武道道場・至誠館でも稽古を重ねるようになった。理科大4年の夏、師匠から「お前は軍人の顔をしている。自衛隊に入れ〔」と自衛隊への入隊を勧められたことで、すでに内定していたゼネコン企業には就職せず、卒業後は陸上自衛隊に幹部候補生として入隊する〔。 幹部候補生学校卒業後は普通科で部隊勤務し、空挺降下、幹部レンジャー、幹部情報の資格を得る。初級幹部として第19普通科連隊で勤務。中級幹部となってからは、学生時代の専攻分野を買われて陸上自衛隊調査学校(現在の陸上自衛隊小平学校)に勤務し、情報収集衛星等を研究した。その後、陸上自衛隊幹部学校指揮幕僚課程(CGS)に入校。同校卒業後、第1空挺団、第39普通科連隊中隊長として勤務を経て、1995年(平成7年)、ドイツの軍事学校「連邦軍指揮幕僚大学校」に留学した。 翌1996年(平成8年)に帰国し、陸上幕僚監部(陸幕)防衛部に勤務した。陸上幕僚監部では、研究班、防衛班、運用班に勤務し、防衛庁防衛局防衛政策課戦略研究室にも勤務した。この間、防衛戦略の見直し、中長期防衛力整備計画の作成、テロ特措法など防衛法制、北朝鮮問題などに関わる。また、特殊部隊創設計画が進められていた陸上幕僚監部で特殊部隊創設のための準備に奔走〔、「陸上自衛隊きっての特殊作戦の専門家」との人物評が定着した〔という。 陸上自衛隊初の特殊部隊創設のため、2002年(平成14年)、アメリカ陸軍特殊部隊群(グリーンベレー)に一年間留学し、特殊任務に関する研修を受ける〔。帰国後、特殊作戦群編成準備隊長に就任した荒谷は、特殊部隊訓練カリキュラムの整備を行なった。同時に、全国から志願してきた自衛官の中から要員を確保。人選にあたっては、英米特殊部隊並みの厳しい選考基準を設けて選抜試験を実施したところ、一人も合格者が出なかった師団もあり、そのことを抗議しに来た当該師団長の陸将と直接対峙するトラブルがあったという。 2004年(平成16年)、特殊作戦群が創設され、初代群長に就任。荒谷は「特戦群戦士の武士道」を指導方針として、3年間特殊作戦群を率いた。在任中は、初級幹部時代から折に触れて行なっていた靖国神社での清掃奉仕を継続した。隊務では、将来予想される各種の実任務において、特殊作戦群の戦力造成や指揮関係について、しばしば陸幕と意見が対立したが、部隊の戦力化については妥協することがなかった。当時の防衛庁長官だった石破茂は、著書「国防」において初代群長としての荒谷の仕事ぶりを好意的に評価した〔石破茂『国防』 〕。 2007年(平成19年)、特殊作戦群長を退任。その後、研究本部主任研究開発官、同総合研究部第2研究課第3研究室長等を経て、2008年(平成20年)8月に1等陸佐で退官。 退官後は2008年9月より明治神宮至誠館に奉職し、専任師範を務める。2009年(平成21年)10月、第2代館長の稲葉稔の退任に伴い、第3代館長に就任して現在に至る(稲葉稔は館長退任後、至誠館名誉師範となる)。日本国外での武道講習開催にも力を注いでおり、現地での開催の模様は動画投稿サイトでも紹介されている。 === 特戦群戦士の武士道 === : 一、確たる精神的規範を有し生死の別を問わず事に当たる肚決めをすること : 一、臆せず行動できず勇気とこれを維持する気力を鍛錬すること : 一、事を成し遂げる実力(知力、技術、体力)を修養すること : 一、言動を一致させ信義を貫くこと 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「荒谷卓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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