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荒鷲 毅(あらわし つよし、1986年8月21日 - )は、モンゴルウランバートル出身〔2014年7月場所以降、出身地登録はホブド県となっている〕で峰崎部屋所属の現役大相撲力士(入門時は荒磯部屋、一時花籠部屋)。身長185cm、体重137kg、血液型はB型、本名はエレヘバヤル・ドゥルゴゥーン(モンゴル語キリル文字表記:)。最高位は西前頭8枚目(2014年9月場所)。得意技は右四つ・寄り・上手投げ。 == 来歴 == 少年時代はサッカーやバスケットボール、水泳などに親しんでおり、2002年に出場した相撲の世界ジュニア選手権で旭鷲山に才能を見出されて荒磯部屋に入門。同年11月場所で前相撲デビューを果たした。当時の公式記録では身長183cm、体重83kg。少年時代はインドネシアに住んでいた時期があり、日本で大相撲に挑戦することには抵抗が無かったという。幕下時代の2006年1月場所を左肩の脱臼で途中休場して以降は脱臼癖がついて休場を繰り返し、7度目の脱臼をした2007年5月場所後に手術を受けた。術後リハビリで3場所全休したため西幕下22枚目から西序二段22枚目まで番付を落としたが、同じく現役時代は肩の脱臼癖に悩んだ千代の富士の相撲を研究して克服した。しかし、ようやく元の番付まで戻った2008年9月場所後に、師匠の荒磯親方(元小結・二子岳)が停年(定年)退職を迎えて部屋が閉鎖されたため、花籠部屋に移籍した。〔読売大相撲 2008年10月号〕 花籠部屋移籍後は一進一退を繰り返した時期もあったが、2010年の後半からは幕下上位に定着。2011年5月技量審査場所では東幕下3枚目で3勝4敗と負け越したが、大相撲八百長問題で大量の引退・解雇力士が出たため、7月場所で極めて異例の新十両昇進を果たした〔13人十両昇進!荒鷲と垣添 負け越しも昇進決めた! スポニチアネックス 2011年5月26日〕。しかしその場所は5勝10敗と大敗してしまい、1場所で幕下陥落。2012年3月場所で再び昇進するも7勝8敗とまたも跳ね返された。同年5月場所後、経営難を理由に今度は花籠部屋が閉鎖されたため、峰崎部屋へ移籍した。 峰崎部屋に転籍して最初の場所であった2012年7月場所は東幕下4枚目で4勝3敗と、十両昇進は厳しい星取りではあったが、十両から陥落してくる力士が多かったこともあり、場所後に再十両昇進が決定。峰崎部屋から初の関取誕生となった。〔新十両に山口改め大喜鵬ら=大相撲 時事ドットコム 2012-07-25閲覧〕しかしその場所も5勝10敗と負け越してしまい、1場所でまた幕下へ戻ってしまった。その後丸1年幕下で停滞し続けたものの、西幕下筆頭の地位で迎えた2013年11月場所を6勝1敗で終え、場所後に関取復帰を果たす。再十両の2014年1月場所は自己最高位を更新した西十両10枚目で8勝7敗、悲願である関取としての勝ち越しを初めて果たした。翌3月場所は自己最高位を東十両8枚目まで更新し、ここでも12日目に勝ち越しを決めるなど好調を示し、自身初の関取2ケタ勝利である10勝5敗の好成績を果たした。翌5月場所の番付には東前頭16枚目の地位に名前が載った。初土俵から所要68場所での新入幕は外国出身力士のスロー新入幕2位となる記録である。〔1位は戦闘竜の72場所。〕〔佐田の海が史上8組目の親子幕内 nikkansports.com 2014年4月24日8時2分〕モンゴルからは、前場所の照ノ富士以来21人目。この場所は途中で4連勝もあったが、12日目に7勝目を挙げてから3連敗で惜しくも負け越した。翌7月場所は場所後半での6連勝も光り、10勝5敗の好成績を残している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「荒鷲毅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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