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荻原 昌勝(おぎわら まさかつ、寛正元年(1461年)?-天文4年9月13日(1535年10月9日))は、戦国時代初期の武将。甲斐武田氏の家臣。武田氏の侍大将8人のうちの1人とされ、武田二十四将の1人とする異説もある。『甲斐国志』では父を荻原備中守としているが、世代が逆である可能性が指摘されている。夫人は飯富虎昌・山県昌景兄弟の伯母とされるが、この説も世代的な問題点が指摘される。常陸介。「昌勝」の名は『武田三代軍記』で、『甲斐国志』所引の荻原家説では「勝政」とされるが、ともに史料からは確認されない。 == 略歴 == 主君武田信昌の一字を拝領したと言われている。『甲陽軍鑑』によれば、信虎に弓術を教え、信虎の嫡男・晴信にも弓矢の物語を聞かせたという。信虎が当主となると家老に任じられた。大永元年(1521年)に駿河国今川氏が甲斐府中へ侵攻した飯田河原の戦いでは信虎の軍師として出陣し、今川軍撃退の策を練ったという。晩年には信虎の嫡男・晴信(信玄)の教育にもあたった。 その活躍は『甲陽軍鑑』の記事に拠るが、荻原氏は甲斐国山梨郡荻原(旧東山梨郡三富村)の国境秩父口の防備を勤めた一族で、その子孫とされる家が武田信玄に仕え、武田氏の滅亡後の天正10年(1582年)には徳川家康から荻原本領を安堵され(「徳川家印反状」武藤文書)江戸幕府の旗本となっている。 『甲斐国志』では甲州市塩山小屋敷の恵林寺に「追福の碑」があったと記しており、享年を75、法名を「天真院功厳元忠居士」としている。 なお、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉に使えた財政家・荻原重秀はこの荻原氏の一族である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「荻原昌勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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