|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 荻 : [おぎ] 【名詞】 1. kind of plant ・ 外 : [そと, ほか, げ, がい] 【名詞】 1. other place 2. the rest ・ 公 : [こう] 1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate ・ 公園 : [こうえん] 【名詞】 1. (public) park ・ 園 : [その] 1. (n,n-suf) garden (esp. man-made) 2. park 3. plantation
荻外荘公園(てきがいそうこうえん)は、東京都杉並区荻窪にある近衛文麿の邸宅であった荻外荘(てきがいそう)の敷地を公園として整備した施設である。 == 歴史 == 旧邸宅は1927年(昭和2年)に伊東忠太の設計により大正天皇の侍医頭入沢達吉の邸宅として創建された。近衛は、南に斜面をもった高台に立地し、近くは善福寺川から遠くは富士山までの景勝を一望のもとに見渡せるこの別荘に惚れ込み、入沢を口説き落として1937年(昭和12年)、これを購入した。近衛家には目白(現在の新宿区下落合)に本邸があり、荻外荘は別邸なのだが、近衛はこの荻外荘が殊の外気に入って、一度ここに住み始めると本邸の方へは二度と戻らなかった〔近衛は軽井沢町や我孫子市、鎌倉市等にも別荘を所有していた。〕。 郊外にあるものの、青梅街道に程近い上に国鉄中央本線の駅にも近いという便利な立地にある上、官邸の喧噪とはうってかわって静寂な荻外荘のたたずまいを、近衛は政治の場としても活用した。同1937年7月第一次近衛内閣が発足されると重要な話し合いや会議が開かれ、有名になった〔杉並区 公式サイト 〕。 「東亜新秩序」の建設を確認した1940年(昭和15年)7月19日の「荻窪会談」や、対米戦争の是非とその対応についてを協議した1941年(昭和16年)10月15日の「荻外荘会談」など、時には定例会合の五相会議までをも荻外荘で開いており、大戦前夜の重要な国策の多くがここで決定された。1941年(昭和16年)9月末に近衛から対米戦に対する海軍の見通しを訊かれた連合艦隊司令長官の山本五十六が、「それは是非やれと言われれば初め半年や1年は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば、全く確信は持てぬ」という有名な回答で近衛を悩ませたのも、この荻外荘においてであった。 こうした変則的な政治手法から「荻外荘」の三文字が新聞の紙面に踊る日は多く、この私邸の名称は日本の隅々にまで知れ渡るようになった。後には吉田茂の「目黒の外務大臣公邸」、鳩山一郎の「音羽御殿」、田中角榮の「目白御殿」などがやはり同じように第二の官邸のような機能を持ったが、その先例はこの荻外荘に求めることができる。 荻外荘には近衛以外にも意外な住人がいたことが知られている。1940年(昭和15年)から近衛は自らのブレーンとして重用しはじめた井上日召を同居人としてここに引っ越させている。井上は右翼団体・血盟団の創設者で、血盟団事件の首謀者として無期懲役判決を受けたが、この年の紀元二千六百年奉祝の特赦により服役8年で出獄したばかりだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「荻外荘公園」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|