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菅 了法(すが りょうほう、安政4年2月8日(1857年3月3日) - 昭和11年(1936年)7月26日)は、明治期のジャーナリスト、「グリム童話」の訳者、衆議院議員、僧(本願寺顧問)。号は桐南。筆名は桐南居士。 == 経歴 == 石見国銀山領川本村(現・島根県邑智郡川本町)の浄土真宗本願寺派・寿国山・光永寺に住職・菅了雲の長男として生まれる。 明治8年(1875年)、学制施行により設立された川本小学(現・川本小学校)の初代校長となる。明治9年(1876年)秋、川本小学を辞して、大阪英語学校(後の第三高等学校)に学び、明治10年(1877年)6月、本願寺からの援助を受けて慶應義塾「大人科」に入学。明治12年(1879年)暮れないし明治13年(1880年)春まで在学。のち慶應義塾特選塾員〔『慶應義塾出身衆議院議員列伝』第1巻、156ページ。〕。 明治13年(1880年)犬養毅が『東海経済新報』を刊行すると、それに記事を載せ始め、明治14年(1881年)1月から7月にかけて交詢社の機関誌『交詢雑誌』の編集人を務める。同年7月、編集を降りて京都に移り、本願寺に学ぶ。明治15年(1882年)、浄土真宗本願寺派から派遣されてサンスクリット語習得とヨーロッパの宗教事情の視察のためにオックスフォードに留学し、およそ3年滞在〔出発の日時、留学の目的、同行者については、『交詢雑誌』第99号「雑記」(明治15年10月25日発行,20ページ)。帰国日時は明確ではないが、了法が明治25年に刊行した雑誌『空文』2号に「今を距ること6年以前」に京都を離れた旨の記述があるので、遅くとも明治19年には帰国していたと思われる。〕。南條文雄と同宿し、南条の師マックス・ミュラーやケンブリッジ大学に留学中の末松謙澄らと交わる。帰国後、本願寺で教育の任に当たるが、教育改革をめぐって対立し、明治19年(1886年)秋頃、上京。 明治20年(1887年)4月に、桐南居士の名でグリム童話から11話を選んで『西洋古事神仙叢話』を東京・集成社から出版。グリム童話のまとまった訳としては本邦初であった〔菅了法の翻訳の一年前に出た『ROMAJI ZASSHI』11号にグリムの「羊飼いのわらべ」が掲載されている(川戸道昭「グリム,アンデルセン童話の発見(上)」『日本古書通信』848号、2000年3月、p.4)。〕。さらに同年6月『哲学論綱』、翌年6月には『倫理要論』を刊行。さらに、明治21年(1888年)8月以降、徳富蘇峰が主宰した『国民之友』に頻繁に論説を寄せ、ジャーナリストとしての地位を確立する。それと並行して、後藤象二郎の大同団結運動に三宅雄二郎、綾井武夫らと共に参加し、機関誌『政論』を滝本誠一と共に担当した。明治21年11月『政論』11月号が筆禍事件で発売禁止となり、了法も入獄。翌年2月、大日本帝国憲法発布の大赦で出獄。明治22年(1889年)4月、衆議院議員選挙出馬を決意し、還俗。明治23年(1890年)7月、無所属で第1回衆議院議員総選挙に島根県第4区から出馬し当選。明治23年12月、『東洋新報』を創刊。明治24年(1891年)1月、多摩の民権運動家吉野泰三の娘りうと結婚。明治24年12月25日、衆議院解散。第2回衆議院議員総選挙では次点で落選し、政界を引退、再び僧職に復帰。 東京・小日向の善仁寺住職、本願寺金沢別院知堂、本願寺執行所出仕を経て、明治28年(1895年)、鹿児島別院本堂建設のため、鹿児島出張所長として赴任。明治30年(1897年)に鹿児島県薩摩郡隈之城村大字東手(現・薩摩川内市向田本町)の光永寺・初代住職に就任。その後、本願寺東京出張所長、彦根・第三仏教中学校長、本願寺賛事、侍真、顧問などを歴任し、昭和11年(1936年)7月、79歳で光永寺において遷化。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菅了法」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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