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菅原大神 : ミニ英和和英辞書
菅原大神[かみ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [かみ]
 【名詞】 1. god 

菅原大神 ( リダイレクト:菅原道真 ) : ウィキペディア日本語版
菅原道真[すがわら の みちざね]

菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日845年8月1日) - 延喜3年2月25日903年3月26日))は、日本平安時代貴族、学者、漢詩人政治家参議菅原是善の三男。官位は従二位右大臣正一位太政大臣
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平讒訴(ざんそ)され、大宰府大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
小倉百人一首では菅家
== 生涯 ==

喜光寺奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。ほかにも菅大臣神社京都市下京区)説、菅原院天満宮神社(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説、菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)、菅原天満宮(島根県松江市)説もあるため、本当のところは定かではないとされている。また、余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。
道真は幼少より詩歌に才を見せ、貞観4年(862年)18歳で文章生となる。貞観9年(867年)には文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下下野権少掾に叙任される。貞観12年(870年方略試に中の上で合格し、規定により位階を三階を進めるべきところ、それでは五位に達してしまうことから一階のみ昇叙され正六位上となった。玄蕃助少内記を経て、貞観16年(874年従五位下叙爵し、兵部少輔ついで民部少輔に任ぜられた。元慶元年(877年式部少輔次いで世職である文章博士を兼任する。元慶3年(879年)従五位上。元慶4年(880年)父・菅原是善の没後は、祖父・菅原清公以来の私塾である菅家廊下を主宰、朝廷における文人社会の中心的な存在となった。仁和2年(886年讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。仁和4年(888年阿衡事件に際して、入京して藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収める。寛平2年(890年)任地より帰京した。
これまでは家格に応じた官職についていたが、宇多天皇の信任を受けて、以後要職を歴任することとなる。皇室外戚として権勢を振るっていた関白・藤原基経亡き後の藤原氏にまだ有力者がいなかったこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。
寛平3年(891年蔵人頭に補任し、式部少輔左中弁を兼務。翌年従四位下に叙せられ、寛平5年(893年)年には参議式部大輔(まもなく左大弁を兼務)に任ぜられ、公卿に列した。
寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられるが、の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により遣唐使は停止される。なお、延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。寛平7年(895年)参議在任2年半にして、先任者3名(藤原国経藤原有実源直)を越えて従三位権中納言に叙任。またこの間、寛平8年(896年)長女衍子を宇多天皇の女御とし、寛平9年(897年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王とするなど、皇族との間で姻戚関係の強化も進めている。
宇多朝末にかけて、左大臣源融藤原良世、宇多天皇の元で太政官を統率する一方で道真とも親交があった右大臣源能有ら大官が相次いで没した後、寛平9年(897年)6月に藤原時平大納言左近衛大将、道真は権大納言兼右近衛大将に任ぜられ、この両名が太政官のトップに並ぶ体制となる。7月に入ると宇多天皇は醍醐天皇譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した〔『公卿補任』はこれをもって道真と時平に対する内覧の任命とするが、吉川真司は執奏された官奏が天皇に渡る前に内容を確認するのが内覧の職務であり、執奏者と内覧が同一人物であることはあり得ないとしてこれを否定する。(吉川「上宣制の成立」(所収:『律令官僚制の研究』塙書房、1998年 ISBN 978-4-8273-1150-1)〕。
醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反撥が表面化するようになった。また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。
昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べた。しかし、儒家としての家格を超えて大臣に登るという道真の破格の昇進に対して妬む廷臣も多く、翌昌泰3年(900年)には文章博士・三善清行が道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告され、罪を得て大宰員外帥左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。また、長男の高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて、道真が巻き込まれたとする説まで諸説ある。
左遷後は大宰府浄妙院謹慎していたが、延喜3年(903年)2月25日に大宰府薨去し、安楽寺に葬られた。享年59。
道真が京の都を去る時に詠んだ「''東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ''」は有名。そのが、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「菅原道真」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Sugawara no Michizane 」があります。




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