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菅原 清公(すがわら の きよきみ / きよとも、宝亀元年(770年)〔『続日本後紀』における享年73より逆算。『公卿補任』では宝亀2年生まれとする。〕 - 承和9年10月17日(842年11月26日))は、平安時代初期の公家・文人。遠江介・菅原古人の四男。官位は従三位・左京大夫。 == 経歴 == 父・古人は高名な儒家であったが、家に財産がなかったことから、清公ら子息は窮乏し苦しんだという。清公は若い頃から経書と史書を学び、延暦3年(784年)詔により皇太子・早良親王に付き従い、延暦8年(789年)奉試に及第して文章生に補せられる。学業に優れて秀才に推挙され、延暦17年(798年)対策に及第して大学少允に任ぜられた。〔『続日本後紀』承和9年10月17日条〕 延暦21年(802年)遣唐判官に任ぜられ、近江権掾を兼ねる。延暦23年(804年)空海・最澄らとともに唐に渡り、遣唐大使・藤原葛野麻呂とともに皇帝・徳宗に謁見し、その引き立てを得た。延暦24年(805年)帰国して従五位下・大学助に叙任される。〔 大同元年(806年)尾張介として地方官に転じるが、後漢の劉寛のように刑罰を用いない統治を行ったという。〔 弘仁3年(812年)地方官の任期を終えて帰京すると、左京亮・大学頭・主殿頭・左右少弁・式部少輔と京官を歴任し、弘仁7年(816年)従五位上、弘仁10年(819年)正五位下・文章博士、弘仁12年(821年)従四位下・式部大輔と嵯峨朝後半にかけて順調に昇進した。この間の弘仁9年(818年)には詔により、朝廷における儀式や衣服が唐風に改められ、五位以上の位記が中国風に改められ、諸宮殿・院堂門閣に新たな扁額が製作されたが、全てに清公が関与したという。のち、左中弁に転じるが意に適わないことがあり、求めて右京大夫に遷った。清公が右京大夫の官職にあった際、嵯峨天皇に京職大夫の相当位を問われ、正五位相当であると答えたところ、直ちに京職大夫の相当位が従四位に改められた。〔 淳和朝に入り、天長元年(824年)播磨権守に左遷されるが、時の人はこれを憂いた。翌天長2年(825年)には国の元老である清公を平安京から遠く離れた地に配置するのは適切でないと、公卿らが奏上したため、清公は再び入京して文章博士を兼ねた。のち、文章博士を務める傍ら弾正大弼・左京大夫を兼ね、天長4年(827年)従四位上〔『日本後紀』天長4年正月21日条〕、天長8年(831年)正四位下と昇進する。 仁明朝の承和6年(839年)には従三位に叙せられて公卿に列すが、老いと病により衰え弱り、歩行に難渋するようになっていたことから、勅により参内にの際に建礼門前の大庭にある梨の樹の下まで牛車に乗ったまま来ることを、これまでの学識を認められて特別に許されている。その後、病により参内することもだんだん絶えて、承和9年(842年)10月17日に薨去。享年73。最終官位は文章博士従三位。〔 孫の菅原道真が天神として祀られたことから、子の是善とともに天満宮に祀られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菅原清公」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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