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菅原道大 : ミニ英和和英辞書
菅原道大[すがわら みちおお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation

菅原道大 : ウィキペディア日本語版
菅原道大[すがわら みちおお]

菅原 道大(すがわら みちおお〔『特攻隊振武寮』での表記による。本書では菅原の遺族にも取材がおこなわれている。〕、1888年(明治21年)11月28日 - 1983年(昭和58年)12月29日)は、日本陸軍軍人。陸士21期。最終階級は陸軍中将
== 経歴 ==
1888年11月28日長崎県南高来郡湯江村甲百九十四番地で小学校教員の父道胤の息子として生まれる。高等小学校仙台陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1907年12月陸軍士官学校に21期生として入校。1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校歩兵科を9番の成績で卒業。同年12月25日、歩兵少尉に任官、歩兵第4連隊付。1910年に行われた徳川好敏による日本では初となる動力飛行を目撃したことがきっかけに航空に関心を持つようになった〔『特攻隊振武寮』p.118〕。
1913年2月3日中尉。1916年陸軍大学校31期に入学。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校卒業。1921年4月陸軍省副官1924年(大正13年)8月20日歩兵少佐。1924年(大正13年)1月から3月までアメリカに出張。1925年3月18日歩兵第76連隊大隊長。
1925年(大正14年)5月、宇垣軍縮が行われ四個師団が廃止され陸軍航空科が独立し、菅原は転科を志願して5月1日付で航空少佐として飛行第6連隊に着任を命じられる〔松沢哲成『日本ファシズムの対外侵略』三一書房75頁〕〔。
陸軍飛行学校令第五条により、陸軍飛行学校召集のため7月28日釜山出発、29日下関到着。9月19日陸軍飛行学校修学終了。また6月17日から11月3日まで下志津陸軍飛行学校、飛行第6連隊長において飛行勤務に服している。12月1日陸大に専攻学生として入校。1926年12月7日同課程卒業。1927年4月8日飛行第6連隊〔松沢哲成『日本ファシズムの対外侵略』三一書房75頁〕。
1927年(昭和2年)12月13日、陸軍航空本部員。1928年4月2日から1929年1月18日まで航空研究委員会幹事を務める。1931年8月1日下志津陸軍飛行学校教官兼同校研究部部員。8月15日から10月13日まで召集佐官として下志津陸軍飛行学校、10月15日から11月11日まで明野陸軍飛行学校に在学した。1935年3月15日航空本部第一課長。1936年1月25日から8月12日まで飛行第6連隊、航空本部において航空勤務。1936年(昭和11年)10月から翌年2月まで欧州に出張。ドイツの航空軍備状況の視察に派遣された(駐独武官大島浩を団長としたが、実質的な長は菅原であり菅原航空視察団と通称された)。視察団の報告内容は、防空は飛行機の特性に通じる航空が担当すること、高射砲の増強で民間の防空も強化すること、防空のために多くの飛行機を使用することはできないことをまとめている〔戦史叢書19本土防空作戦42頁〕。
1937年(昭和12年)8月2日、陸軍少将に進級、第2飛行団長に任命。1938年7月第3飛行団長。1939年(昭和14年)10月、陸軍中将、陸軍航空総監部付。1939年12月下志津飛行学校長。1940年8月1日第1飛行集団長。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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