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菅屋 長頼(すがや ながより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田信長の側近として仕えた。姓は「菅谷」と書かれる事も。 == 生涯 == === 馬廻時代 === 長頼は織田信房の子として生まれた〔谷口克広「信長家臣人名録」『激闘織田軍団』(学習研究社・1990年)〕。幼名は長であったという。生まれた時期は明確ではないが、史書には1560年代後半に菅屋九右衛門として登場しており、若い頃から織田信長に仕えていたと考えられる〔信長公記 巻二「阿坂の城退散の事」〕。 初見は山科言継の『言継卿記』における永禄12年(1569年)3月16日条が初見で、この時、岐阜を訪れた言継を織田信広・飯尾尚清・大津長昌らと共に接待し、山科家の知行地の目録を委ねられている。同年8月の伊勢大河内城攻めで、「尺限廻番衆」として前田利家・塙直政・福富秀勝・河尻秀隆・中川重政などとともに戦っている〔『信長公記』〕。 元亀元年(1570年)6月には姉川の戦い前に近江北部に布陣している様子が確認できるが〔『浅井三代記』〕、同年8月24日には京都に戻っていたようで、本能寺で宿泊中であった信長に礼参した吉田兼見から20疋を贈呈されている。この時、同じく奏者を務めた塙直政も受け取ったのは同額の20疋であり、地位は同じく馬廻であったが赤母衣衆に選抜されていた塙と同等の扱いを受けており、長頼の地位もただの馬廻より高位であったことが伺える〔『兼見卿記』〕。同年9月の志賀の陣に参陣したが、この時、馬廻ながら足利義昭への使いを務めたり、陣中を訪れた山科言継を取り付いだりしているため、前線には出ず信長の傍らで側近のような役割をしていたと思われる〔『言継卿記』〕。同年10月20日には信長より使いに出され、朝倉義景陣中へと赴き織田軍との決戦に応じるように促したが不調に終わった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菅屋長頼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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