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菅木志雄(すが・きしお、1944年生)は静岡県伊東市在住の現代美術家で、作品は立体やインスタレーションなど多岐にわたっている。妻は作家の富岡多恵子。 菅は、1960年代後半から70年代にかけて台頭した「もの派」 グループの中心メンバーである。もの派の作家は、石、鉄板、ガラス、電球、綿、スポンジ、紙、木、鉄線、ワイヤー、ロープ、革、油、水といった、「もの」自身を主題にするとともに、諸要素と空間の相互依存に焦点をあてた。自然的な物質と工業的な物質の出会いを探求し、それらを一過性の静止状態に配置することによって作品とした。 ==来歴== 菅木志雄は岩手県盛岡市で生まれ、1964年から1968年まで、東京の多摩美術大学油画科で学んだ。多摩美在籍中にジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズ、西田幾多郎、ナーガールジュナ、ヴァスバンドゥの著作を読みふけった。 この時期に大学で教鞭をとっていた二人の作家が、菅に大きな影響を与えている。その一人である斎藤義重は、菅をはじめとする学生に、モダニズムと欧米を中心とする芸術理論に対し脱構築的アプローチをとることを促した。そして、菅に影響を与えたもうひとりの教師は芸術家・高松次郎である。高松はだまし絵のような絵と彫刻をもって、当時の東京アートシーンの中核をなしており、菅の初期作品は高松のアプローチを反映しているといえるであろう。 1968年、 椿近代画廊(東京)での初個展に出展した《転移空間》は、赤く塗装した木材を使った自立する作品だが、箱が自らの重みで崩れていくような錯覚を見る者に与える。 視覚を操作する絵画や立体作品の制作と同時期に、菅は様々な素材を使った創作活動をはじめる。一例は、おがくず、綿、灰、プラスチックの粉末、土の層、が透明なアクリルの箱に入った《積層空間》(1968年)という作品である。 1968年後半には、素材、はかなさ、空間の探求が広義のムーブメントとして認識されるようになった。例えば、この時期に李禹煥は、初めて石と鉄板を配置した作品を発表している。また、関根伸夫は、神戸の須磨離宮公園で行われた第一回野外彫刻展で、地下2.7m、直径2.2mの円柱型の穴と、掘り起こした土をさらに同じ大きさで固めた土からなる《位相—大地》という作品を発表している。 1973年までに、菅木志雄、李 禹煥、関根伸夫、及び小清水漸、吉田克朗、榎倉康二は「もの派」として知られるようになった。 菅は、ものの現実と状況の相互依存に焦点をあてる行為を「放置」と呼び、「放置」という言葉を用いて自身の考えを述べるようになる。そして、「状況」の探求と存在の「アクティベーション」を進める中で、もの派のアプローチを象徴するような数々のインスタレーションの制作に取り組むようになる。 主なものに以下の作品がある。 ・《状況律》(1971年): 10個の平らな石を20mの長さのガラス上に配置し、それを山口県宇部市常磐公園の池に浮かべた作品である。 ・《等間体》(1973年): 壁に立てかけられた2本の分岐した枝先が、床に置かれた石に結ばれたロープを4点で支えているインスタレーション作品である。 ・《多分律》(1975年): 複数のコンクリート柱の上に、透明なプラスチックのシートが広げられ、それぞれの柱の上に石を乗せた作品である。 菅は、サイトスペシフィックなインスタレーション以外にも、壁や床に展示する小規模なアッサンブラージュ作品をたびたび制作している。素材を、縛る、結ぶ、積み重ねる、切る、貼付ける、塗る、テープで留める、くさびを打つ、立てかける、剥ぐ、釘をうつ、ねじでとめる、彫る、折る、たたむ…といった多様な行為によって、菅は作品を形作っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菅木志雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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