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森山 茂(もりやま しげる、天保13年9月(1842年) - 大正8年(1919年)2月26日)は、日本の外交官、政治家。外交官の時には朝鮮との外交交渉に携わり、退官後は元老院議官、富山県知事、貴族院議員などを務めた。錦鶏間祗候〔『官報』第1969号、大正8年2月27日。〕。 == 経歴 == 天保13年(1842年)9月、大和国十市郡常盤村(のち奈良県橿原市常盤町)に萱野恒次の長男として生まれ、後に森山家を継いだ。 明治維新後に兵庫裁判所に出仕。明治2年(1869年)4月に外国官書記となり、同年7月の外務省創立により外務少録に任じられた。同年12月に日朝事情の調査のため従来の日朝外交を所管していた対馬藩と釜山に出張した。明治3年(1870年)4月に外務権大録となり、同年10月に外務権少丞の吉岡弘毅の随行で朝鮮国に派遣され修交を求めたが、朝鮮側の倭学訓導・安東晙に対馬藩吏以外との会見を拒否されたため、明治4年(1871年)11月に一旦帰国した。翌明治5年(1872年)1月、廃藩置県により対馬藩主から外務大丞となった宗重正名で、外交権限が対馬藩から外務省に移管された旨の文書を携えて再び朝鮮国と交渉したが、不調に終わった。その後、外務大録、外務少記と昇進。明治6年(1873年)12月の朝鮮国で排外論を唱える大院君の引退、明治7年(1874年)4月の訓導・安東晙の刑死を受けて、同年5月に再び朝鮮国へ派遣され、訓導・玄昔運などと日朝新関係成立について協議した。同年12月に外務少丞、明治8年(1875年)12月に外務権大丞となり、日朝修好条規締結交渉を行う黒田清隆の随員となった。明治10年(1877年)4月、退官。 その後、元老院権大書記官・大書記官を務め、明治20年(1887年)12月から元老院議官、同23年(1890年)7月から2年間、富山県知事を歴任した。明治27年(1894年)4月から大正8年(1919年)2月までの約25年間貴族院議員(勅選)を務めた。位階は従三位勲二等。 大正8年(1919年)2月に逝去。享年78。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森山茂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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