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菅沼守人 : ミニ英和和英辞書
菅沼守人[すがぬま もりと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぬま]
  1. (n,n-suf) swamp 2. bog 3. pond 4. lake 
: [もり]
 【名詞】 1. nursemaid 2. baby-sitting 
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1

菅沼守人 : ウィキペディア日本語版
菅沼守人[すがぬま もりと]

菅沼 守人(すがぬま もりと、1942年昭和17年)7月27日〔出典:『季刊 道』No.145「九州派遣35周年を迎えて 菅沼守人 合気会8段会見」 19頁。〕 - )は日本合気道家。合気道(合気会)八NPO法人合気道祥平塾(福岡市)理事長・道場長。全日本合気道連盟理事。国際合気道連盟高等委員〔第11回国際合気道大会に於ける国際会議(2012年(平成24年)9月18日~22日)にて選出された。2012~2016年迄の任期。(出典:『合気道探究』第45号、出版芸術社、2013年、24頁、ISBN 978-4-88293-439-4。)〕。合気道創始者植芝盛平最晩年の内弟子の一人〔同時期の内弟子に藤田昌武清水健二遠藤征四郎らがいる〕。

== 略歴 ==
福島県猪苗代町(旧千里村)の専業農家に生まれる。父親は大東亜戦争に出征し、昭和21年日本帰国前に病没した。福島県立会津高校時代棒高跳び選手として地方大会で活躍、順天堂大学体育学部に入学しオリンピック選手を目指すも、猛練習が祟り肝炎を発症し断念、大学を中退し帰郷するが、体育教師を目指し1963年(昭和38年)亜細亜大学に入学、同時に合気道部に入部し田村信喜に指導を受ける〔出典:『武道』560号45頁〕。
大学卒業後の1967年(昭和42年)、合気会本部道場(東京)に入門、植芝盛平が死去するまでの2年間、内弟子として側に仕える。また植芝吉祥丸大澤喜三郎らに指導を受ける。
1970年(昭和45年)4月19日、当時合気会の勢力が少なかった九州へ普及のため合気会本部より派遣される。1977年(昭和52年)4月3日、福岡市に「合気道祥平塾」を設立。「祥平塾」の名は、植芝盛平と二代目合気道道主・吉祥丸から一字ずつ取ったもので、吉祥丸の命名による。傘下道場は九州を中心に全国に広がり、オランダカナダノルウェーイスラエル中華人民共和国など日本国外にも支部を持つ〔盛平没後の1969年(昭和44年)、当時合気会熊本支部長であった砂泊かん秀万世館合気道として合気会から独立したため、九州の合気会傘下道場は激減した(砂泊は盛平から私的に九段位と「九州師範長」の免状を与えられており、九州での道場の多くが砂泊の傘下にあった)。当時の合気道(合気会)道主・植芝吉祥丸はこの劣勢を挽回する大任を当時27歳の菅沼に託し九州に派遣した。「祥平塾」設立当初わずか20名でスタートした菅沼の門下生は日本・海外で現在3,000人を超え、入門者は延べ2万人に達するという。(出典:『季刊 道』No.145「九州派遣35周年を迎えて 菅沼守人 合気会8段会見」 19-26頁。)
〕。
1981年(昭和56年)曹洞宗管長(大本山總持寺第21世住持)梅田信隆に入門、の修業を積む。
2000年代以降残り少なくなった「植芝盛平の直弟子」「開祖最後の内弟子」として各地で合気道の指導に当たる。
2013年日本武道協議会から平成24年度の武道功労章を受賞する〔出典:月刊武道2013年2月号31頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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