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菅沼 定利(すがぬま さだとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上野吉井藩の初代藩主。 三河国設楽郡に地盤を持つ菅沼氏の総領家である田峯菅沼氏に生まれ、菅沼定吉の子とも、定吉の叔父・定直の子とも言われている。『明知物語』には、菅沼藤蔵(後の土岐定政)の母の弟と伝えられるが、これは藤蔵の養父・定仙の事が誤伝されている為、該当しない。元亀2年(1571年)に定吉が武田信玄に与すると、これに反対して田峯から離反し、支族である野田菅沼氏の菅沼定盈を頼って徳川家康に仕えた。菅沼定吉は天正3年(1575年)の長篠の戦い後に菅沼定直らの離反と徳川氏の侵攻を受けて武節城を奪われて信濃国伊那郡に落ち延び、翌年には同郡を拠点として反撃して菅沼定直らを殺害したとされ、この間定利は一貫して徳川方として戦っている。天正10年(1582年)に織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡したとき、定吉も織田軍の追討を受けて殺された(一説には、赦免を嘆願した定吉の要求は退けられ、誅殺されたとも)ため、田峯菅沼氏の後継に任命された。なお、定利の官途名は小大膳もしくは大膳亮であるが、これは田峯菅沼氏宗家の当主代々の官途名であり、同氏の後継者であることを明らかにしたとみられている。 武田氏の滅亡後、かつて菅沼定吉がいた伊那郡は知久氏・保科氏・下条氏・木曽氏によって分割されたが、保科氏以外は羽柴秀吉への内通や内紛による没落してしまう。このため、徳川家康は天正12年(1584年)、菅沼定利を伊那郡に派遣して同郡の田峯菅沼氏の勢力を継承させるとともに、同郡の安定化を命じる。定利は知久氏の知久平城に入った後、下条氏の飯田城に移って徳川方に残った国衆を統率した。また、信濃国の領有を巡って対立していた徳川家康と上杉景勝がともに秀吉の傘下に入ると両者の国境確定が課題となり、飯田城にいた菅沼定利と上杉氏から海津城に派遣されていた須田満親が現地における交渉が行われている。 小田原征伐後、家康が関東に移ると上野国吉井に2万石を与えられた。伊那郡の代官的存在であった菅沼定利が、諏訪郡の諏訪頼忠、佐久郡の依田康勝とともに上野国に移封されたのは、徳川氏の信濃方面に対する備えとしての役割を有していたとみられる。定利は領内で検地を実施し、六斎日六斎市を催すなど、治政の安定化に努めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠軍として、真田昌幸の信濃上田城攻めに参加した。 慶長7年(1602年)に死去。田峯菅沼氏の血統は断絶したが、死後の家督は盟友・奥平氏から迎えた養嗣子の忠政が継いだ。 菩提寺として創建した吉井神保の仁叟寺に葬られたが、150年後に三河新城3代領主菅沼定用により、墓石塔を玄太寺に移された。現在、墓石塔は吉井町史跡に指定されている。 == 参考文献 == *柴裕之「戦国大名徳川氏の伊那郡統治と菅沼定利」『駒沢史学』65号(2005年)/改題所収:「徳川氏の信濃国伊奈郡統治と菅沼定利」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-884-4 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菅沼定利」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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