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菅裸馬 : ミニ英和和英辞書
菅裸馬[うま]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はだか]
  1. (n,adj-no) naked 2. nude 3. bare 
裸馬 : [はだかうま]
 (n) unsaddled horse
: [うま]
 【名詞】 1. (1) horse 2. (2) promoted bishop (shogi) 

菅裸馬 ( リダイレクト:菅礼之助 ) : ウィキペディア日本語版
菅礼之助[すが れいのすけ]

菅 礼之助(すが れいのすけ、1883年11月25日 - 1971年2月18日)は、日本実業家俳人秋田県生まれ。旧制秋田中学、日本中学(現:日本学園)、東京高等商業学校(現:一橋大学)出身。古河鉱業(現古河機械金属)を経て、石炭庁長官、同和鉱業(現DOWAホールディングス)会長、昭和鉱業(現昭和KDE)会長、東京電力会長、経済団体連合会(現日本経済団体連合会)評議会議長等を務めた。1970年勲一等瑞宝章1971年従三位勲一等。第九代、十代、十三代如水会理事長。初代日本相撲協会運営審議会会長。俳人としては裸馬と号し、俳誌「同人」を主宰した〔。
==経歴==
菅礼之助(菅裸馬)は明治16年(1883年)に秋田県土崎に生まれ(本籍は雄勝郡秋ノ宮)、東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業後、明治38年(1905年)に古河鉱業へ入社、古河グループの三代目古河虎之助をビジネスで支える一人となった。大阪支店長等を経て、大正6年(1917年)に古河商事取締役、大正9年(1920年)に古河合名会社の取締役になっている。昭和6年(1931年)、古河鉱業を退職し、2年間アジア、欧州、米国等外遊し見聞を広めた(昭和8年帰国)。帰国後、閑居していたが、東京証券取引所監査役、日満鉱業(株)会長等の声がかかった。昭和14年(1939年)帝国鉱業開発(株)社長となる。帝国鉱業開発は国策会社で、国が中小鉱山に金融面での支援、あるいは自ら事業を行う機関で、同和鉱業、昭和鉱業等の支援を行った。その結果、戦後に昭和鉱業、同和鉱業の会長に招かれている。また第1次吉田内閣片山哲社会党内閣の石炭庁長官を務めた。そのような中、菅の鉱山業界での活躍を見て、電力王と称された松永安左衛門が菅に東京電力会長就任を請い、昭和29年(1954年)に四代目東京電力会長となり、その職を7年間務めた。また昭和30年(1955年)に石坂泰三会長時代に、経団連評議会議長を務めた。経団連は昭和35年(1960年)に経団連ビルを立て直しているが、菅は「経団連会館建設委員長」として、財界から当時の約70億円の募金を集める役割を果たした(経団連会館は平成21年に再築されている)。
菅には財界人のほかにもう一つの顔があった。俳句である。昭和24年(1949年)に、関西の雄といわれた青木月斗の後を継ぎ、俳句結社「同人」の二代目主宰となり、約20年間その役割を続けた。作句に関しては、奇を好まず、小主観を捨てて、自然描写の中から個性を引き出すことを重視したと言われる。裸馬と交流が深く、裸馬の句集「玄酒」を編集した石田波郷は「裸馬の句は、平明な詠みぶりだが、充実、鋭敏、脈動が迫ってくる」と評している。
その他、相撲、芝居(歌舞伎)の世界でも多くの交流を持ち、特に時津風理事長(双葉山)時代の相撲運営審議会会長を務め、双葉山との交流は深かった。さらに源実朝の研究者としての実績も残した(現在でも鎌倉の鶴岡八幡宮には菅裸馬の句、「歌あはれ その人あはれ 実朝忌」の句碑が残っている)。
(菅裸馬の著書)
随筆「うしろむき」、「雁わたる」、句集に「玄酒」、「裸馬翁五千句」、「自註菅裸馬集」等がある。随筆「うしろむき」の中の「錦島三太夫の死」は金子洋文の脚本で、花柳章太郎、エノケン一座が上演し、NET(現テレビ朝日)でテレビドラマ化されている。
(菅裸馬の代表句) ー 草焼くや眼前の風火となりぬ     (昭和2年) ー 歌あはれその人あはれ実朝忌     (昭和14年) ー 天皇は人にておはす麦藁帽      (昭和22年) ー 星二三ひそめて夜の梅となる     (昭和25年) ー 庭前の柏樹子冬日弄ぶ        (昭和25年) ー 紅梅に匂ふ少年老い易し       (昭和26年) ー 水中花人には人にあるだけの運    (昭和29年) ー 咲き絶ゆるまで朝顔に流れたりし月日 (昭和29年) ー 失われるものゆゑ虹に佇(た)ちつくす(昭和29年) ー 選二タ夜五更の露を感ずらく     (昭和32年) ー ほかの道を知らずこの道花茨     (昭和33年) ー 歳月は空行く天馬雲の秋       (昭和36年) ー 母の日やそのありし日の裁ちばさみ  (昭和37年) ー また今日へつづく春寒人殺す     (昭和38年) ー 春の霜解くるを待たで旅行くも    (昭和39年)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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