|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 初 : [はつ] 1. (n,adj-no,n-suf) first 2. new ・ 初穂 : [はつほ] (n) first ears of rice or crops or harvest of the season ・ 穂 : [ほ] 【名詞】 1. ear (of plant) 2. head (of plant)
松澤 初穂(まつざわ はつほ、1914年1月8日 - 2011年1月1日)は、京都府出身の元水泳選手である。1932年に開催されたロサンゼルスオリンピックに競泳女子代表として出場した。 == 経歴 == 京都府舞鶴市に生まれる〔広報まいづる平成20年6月16日号 2011年2月10日閲覧。〕。水泳に取り組むきっかけは、女学校3年のときに訪れた。転校した市岡高等女学校(現在の大阪府立港高等学校)には、プールと水泳部があり、当時の水泳部顧問にクロール泳法を習ってめざましい進歩を見せた。翌年、大阪府立女子校の水泳大会に出場して50メートル自由形で日本記録に並ぶ好記録を出し、さらに次の年には50メートル自由形及び100メートル自由形で日本新記録を出していた〔Total Olympic Ladies会(オリンピック出場女子選手の会)編 『わたしたちのオリンピック 日本女子選手52人の思い出集(1932-1994)』 ベースボールマガジン社、1996年、13頁。〕。 市岡高等女学校卒業後、日本女子体育専門学校(日本女子体育大学の前身)に進学した〔 中澤篤志 2011年2月11日閲覧。〕〔OG列伝 1930-1970年代 ニチジョ体育.com 2012年1月14日閲覧。〕。しかし、当時の学校にはプールの設備がなかったため、平日は近くの池で泳ぎ、日曜のみ神宮プールで練習していた〔。ロサンゼルスオリンピックの日本代表最終選考会では100メートル自由形に出場したが、ゴール直前で水を飲み込んでしまって1位になれなかった。それでも日本代表に選抜され、オリンピック出場を果たすことができた〔〔Total Olympic Ladies会(オリンピック出場女子選手の会)編 『わたしたちのオリンピック 日本女子選手52人の思い出集(1932-1994)』 ベースボールマガジン社、1996年、14頁。〕。 ロサンゼルスオリンピックでの日本女子選手の宿舎は現地の一流ホテルに決まっていたため、選手たちは日々の合同練習の他にも英会話やテーブルマナー、そして親善交流のために和服の着付けを学び、忙しい毎日を過ごした〔Total Olympic Ladies会(オリンピック出場女子選手の会)編 『わたしたちのオリンピック 日本女子選手52人の思い出集(1932-1994)』 ベースボールマガジン社、1996年、15頁。〕。オリンピックに向けて横浜港から船で約20日をかけて渡米し、その航海中は主将を務めた松澤が女子水泳選手たちの世話を任されていた〔。朝食後は船の甲板上でデンマーク体操を行い、倉庫内に作った仮のプールで毎日2回練習をした〔。 日本女子選手団はハワイを経由してロサンゼルスに入り、女子選手たちの宿舎となった市街地の中にあるホテルに滞在した。滞在中は日本女子選手の和服姿が大好評となり、お土産に持参した日本手ぬぐいや扇子などを渡すなどして、親善大使としての役目も大いに果たすことができた〔Total Olympic Ladies会(オリンピック出場女子選手の会)編 『わたしたちのオリンピック 日本女子選手52人の思い出集(1932-1994)』 ベースボールマガジン社、1996年、17頁。〕。 ロサンゼルスオリンピックの水泳100メートル自由形は、10カ国から20人の選手が出場して、8月6日(予選)、8月7日(準決勝)、8月9日(決勝)の日程で実施された。松澤は予選1組に出場して1分17秒1と自己記録を更新する泳ぎを見せたが、5選手中4位の結果となり、予選で敗退した〔〔Swimming at the 1932 Los Angeles Summer Games:Women's 100 metres Freestyle 2011年2月10日閲覧。〕〔Total Olympic Ladies会(オリンピック出場女子選手の会)編 『わたしたちのオリンピック 日本女子選手52人の思い出集(1932-1994)』 ベースボールマガジン社、1996年、19頁。〕〔水泳100メートル自由形には、日本から小島一枝と荒田雪江も出場したが、いずれも予選で敗退している。〕。このオリンピックでは前畑秀子が200メートル平泳ぎで銀メダルを獲得した他、鎌倉悦子が飛込競技の高飛び込みで6位、飛び板飛び込みで7位に入った。競泳でも全員が自己記録を縮め、日本女子水泳陣のオリンピック初参加として上々の成果だったと後に回想している〔。 1933年8月29日、松澤は大阪の大会に出場、50m自由形で31秒6の日本記録をマークする〔 日本水上競技連盟機関誌『水泳』第22号 1934年〕。この記録は1954年8月21日、奈良県立五條高等学校(当時)の宮部シズヱが神宮プールでの第22回日本高等学校選手権大会で31秒4をマークするまで21年間も破られなかった〔 日本水泳連盟機関誌『水泳』第103号 1955年〕。 日本女子体育専門学校卒業後は母校である市岡高等女学校の教師となり〔『水の松澤孃結婚』東京朝日新聞 1937年12月7日夕刊 2面〕、1936年に開催されたベルリンオリンピックでは、日本選手団水泳競技の役員として参加した。ベルリンには、シベリア鉄道を使った12日間の長旅となった。列車備え付けのシャワーは料金が高くて使えず、ベルリンへ到着するなり選手たちはお風呂代わりにプールへ直行したと記述を残している〔Total Olympic Ladies会(オリンピック出場女子選手の会)編 『わたしたちのオリンピック 日本女子選手52人の思い出集(1932-1994)』 ベースボールマガジン社、1996年、25頁。〕。このオリンピックでは、前回ロサンゼルスオリンピック200メートル平泳ぎ銀メダリストの前畑に日本中の期待が集まっていた。同種目の決勝前夜、緊張で寝つかれない前畑のために、他の選手たちはマッサージを行ったり、歌を歌ったりして前畑の不安を和らげることに努めた〔。前畑との友情はその後長く続き、前畑の死の5ヶ月ほど前に見舞いに行ったとき何度も引き止められたという〔Total Olympic Ladies会(オリンピック出場女子選手の会)編 『わたしたちのオリンピック 日本女子選手52人の思い出集(1932-1994)』 ベースボールマガジン社、1996年、29頁-30頁。〕。 1937年12月に同志社大学相撲部主将を務め、第12回全国学生相撲選手権大会個人戦で優勝(第12代学生横綱)した菅谷定と結婚し〔、株式会社テレビ東京取締役社長・会長を務めた菅谷定彦〔菅谷定彦テレビ東京会長の母、初穂さんが死去 日本経済新聞 2011年1月4日閲覧〕など一男四女の5人の子の母となった〔Total Olympic Ladies会(オリンピック出場女子選手の会)編 『わたしたちのオリンピック 日本女子選手52人の思い出集(1932-1994)』 ベースボールマガジン社、1996年、21頁。〕〔水泳愛した一生 故菅谷さんの伝記、子どもが出版 神戸新聞 2014年4月9日閲覧〕。1964年度の財団法人日本水泳連盟表彰では「功労章」を受け、1982年度には兵庫県水泳連盟からも「有功賞」を受賞した〔表彰関係 兵庫県水泳連盟 2011年2月10日閲覧。〕。1996年に発行されたTotal Olympic Ladies会(オリンピック出場女子選手の会)〔Total Olympic Ladiesウェブサイト 2011年2月10日閲覧。〕〔1964年に開催された東京オリンピックの日本代表女子選手が、20年ぶりの再会を機に結成した「東京オリンピック・レディス(TOL)会」が前身である。翌年、その他のオリンピックに出場した日本代表女子選手も加えて「トータル・オリンピック・レディス(略称は同じTOL)」として正式に発足した。〕 編『わたしたちのオリンピック 日本女子選手52人の思い出集(1932-1994)』では、「日本女子選手が初参加したころ」(1932年ロサンゼルスオリンピック)、「前畑秀子さんの思い出」(1936年ベルリンオリンピック)」の2編を寄稿している。 1984年、70歳になったのを機にマスターズ選手として再び泳ぐようになり、「西宮すみれ会」という水泳チームを結成してマスターズ大会に出場、86歳までプールで泳ぎ続けた〔。 2011年1月1日、兵庫県西宮市で死去〔。。没後に菅谷家の手により評伝『日本女子水泳のパイオニア:菅谷初穂の歩み』〔日本女子水泳のパイオニア : 菅谷初穂の歩み 国立国会図書館詳細情報〕が纏められて水泳関係者などに配布された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松澤初穂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|