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菅野 光夫(すがの みつお、1952年8月28日 - 2007年3月22日)は、茨城県出身の元プロ野球選手(内野手)。 == 来歴・人物 == 武相高校卒業後、社会人野球の三菱自動車川崎に入社。守備の名手として知られ、1974年の都市対抗では東芝の補強選手としてチームの準決勝進出に貢献〔「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年〕。同年には全日本選抜メンバーとしてキューバに遠征する。 1975年、日本ハムにドラフト1位で入団。1977年には行沢久隆と遊撃手の定位置を争い、1979年からは主に二塁手として起用される。1981年の日本シリーズでは全試合に出場し、12打数5安打2打点の好記録を残す。1983年までレギュラーを守るが、翌年には五十嵐信一、白井一幸にポジションを譲る。 当時の日本ハムは、菅野以外にも1976年に行沢(1979年に西武へ移籍)、1978年には古屋英夫、1979年には高代延博と若手内野手を次々と獲得し、彼らの成長が1981年のリーグ優勝をもたらす一要素となった。菅野も内野ならどこでも守れるユーティリティープレーヤーとして、地味ながら優勝に貢献した。 1978年のオールスターゲームではファン投票で遊撃手部門1位となったが、9ポジションのうち8人を日本ハム勢が占めたことが問題となり、三塁手の古屋英夫と共に出場辞退となった。古屋は翌年にオールスター初出場を果たしたが、菅野は結局オールスターに出場できなかった。 1985年に現役引退し、翌年日本ハムの守備走塁コーチに就任。2000年には二軍トレーニング兼内野守備コーチ。2005年からは鎌ヶ谷の選手寮「勇翔寮」の寮長を務め、ダルビッシュ有をはじめとした若手の面倒を見続けた。 2007年1月の球団の健康診断で肝機能の数値が高いということを知らされ、2月に検査を受けた。直腸に癌らしきものがあると言われ、3月に再検査をし、直腸癌と確定された。予想以上に癌の進行が早く入院したが、同年3月22日、直腸癌による心不全のため54歳で永眠した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菅野光夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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