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菊池 則忠(きくち のりただ)は、幕末の肥後国球磨郡米良領主〔相良氏付庸無高だが交代寄合。〕。米良栄叙の嫡男。 == 生涯 == 肥後国球磨郡米良小川(現在の宮崎県西米良村小川)〔明治以降は宮崎県に属した。〕に生まれる。嘉永元年(1848年)12月父が没し、翌年3月20歳の時に家督を継ぎ17代米良領主となった。米良宗家の代々の号である主膳を称す。菊池氏の末裔の意識を持っており、家臣の甲斐大膳・大蔵父子らと尊王攘夷派として活動した。 明治元年(1868年)菊池姓への復姓を願い出て、翌明治2年(1869年)正月菊池広次郎忠(すなお)と名乗った。同年版籍奉還の際東西米良村、三財村寒川(現西都市)他の領内の山林を全領民に分け与えて村民の基盤を整え、子弟の教育の為に弘文館(後の米良小学校)を開設した。西南戦争の後、家督を嫡男の武臣に譲った。晩年は菊池神社宮司を務めた。明治41年(1908年)に77歳で没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菊池則忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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