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菊池 武包(きくち たけかね、生年不詳 - 天文元年2月13日(1532年3月19日))は、菊池氏の第25代〔菊池武経を不当として、数えない場合は、第24代。〕当主。詫摩氏出身で詫摩武安の子。幼名を宮松丸。官途は肥後守。 ==略歴== 詫摩氏(詫磨氏)は、菊池氏の第12代当主武時の子武澄の次男武元が、詫摩郡〔詫磨、託麻、詫間など、同音のさまざまな漢字が当てられる。〕を領して詫摩別当太郎と称したのを祖とする菊池家の分家の1つである。 武包の生年は不詳。詫摩郡本山城に生まれた。 肥後国に勢力を拡張しようとした豊後の大友氏では、まず大友親治が阿蘇氏と連合して阿蘇惟長(菊池武経)をして菊池氏を横領させしめ、菊池政隆を廃嫡させ、惟長を第24代当主の菊池武経とした。政隆は大友氏の将朽網親満によって捕らわれ、後に自害に追いやられている。 永正8年(1511年)、武経が国人衆や菊池家中の重臣と対立して、身の危険を感じて隈府城から出奔〔その後、武経は、阿蘇・矢部へ戻り、永正10年(1513年)、弟阿蘇惟豊に譲っていた阿蘇大宮司職を奪還した。〕すると、空白になった菊池氏当主の後継者として、重臣の隈部親氏〔菊池政隆の死に際して殉死した隈部鎮治の子。〕(上総介)・長野運貞(備前守)・内古閑(内空閑)重載の三名が、詫摩武安の子・武包を奉じ、宗家を継がせて菊池氏系統最後の肥後守護としたが、勢力は振るわず、家臣の一部が従ったに過ぎなかった〔武包が発給した文書は永正17年9月30日付の所領宛行状1通のみである。一方、大友菊法師丸の実父である大友義長(永正15年没)は、既に菊池氏の当主には菊法師丸が継ぐと表明して、その名代として菊池氏傘下の国人領主たちに安堵状を発給していた(木村忠夫「大友氏の豊後支配」(初出:『熊本史学』42号(1973年)/所収:八木直樹 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第二巻 豊後大友氏』(戎光祥出版、2014年))。〕。 この頃、大友氏では、永正12年(1515年)に大友義長が隠居して家督を義鑑に継がせたが、若年の義鑑の相続には家中でも不満があり、過去の内紛の影響もあって親治・義長の院政のような状態が続いていた。義鑑の弟菊法師丸(後の大友重治)を擁立しようという勢力もあったので、義鑑とその後援者は、菊法師丸を菊池氏に入嗣させて、肥後に勢力を伸ばすと同時に宗家の安泰も図ろうとした〔ただし、前述の通り、大友氏による菊法師丸擁立の動きは父・義長以来のものであり、菊池武経の追放もそのための一環であったともされる。〕。菊法師丸は、大友宗家の家督に未練があり、菊池氏の家督は望んでいなかったが、永正15年(1518年)に義長が死して義鑑が独り立ちすると、これを断れるような情勢ではなくなった。 永正17年(1520年)、大友氏の圧力を受けた菊池家臣団は、武包は暗愚であるという理由を言うように仕向けられて、武包を放逐し、元服した菊法師丸である大友重治を当主として隈府城に迎い入れた。重治は「菊池義宗(後に義武)」と称して、第25代当主となった。 大永3年(1523年)、菊池武包は、旧臣と共に玉名郡に落ち延びていたが、筒ヶ嶽城(荒尾市府本)で挙兵し、依然として菊池氏当主であると主張した。当時大友氏と同盟関係にあった阿蘇惟豊は甲斐親宣を派遣してこれを討たしめ、大友阿蘇連合軍に攻められた武包は打ち破られ、肥前国の高来に逃れた。 天文元年(1532年)、武包は同地で病没した。法名は宗岳大居士。彼の客死をもって菊池家は滅亡した。なお、武包に取って代わった義宗(義武)も、後には武包と同じように、隈府城を追われて高来に逃れて、さらに後に非業の死を遂げている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菊池武包」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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