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菊池 章子(きくち あきこ、1924年1月28日 - 2002年4月7日〔「岸壁の母」の菊池章子さん死去 nikkansports.com 〕)は、東京市(現東京都)出身の歌手である。本名は菊池 郁子。妹は歌手の多摩幸子。義子に大久保直彦、孫にcaminoのKIKUとBREATHのメンバーだった菊池一仁がいる。 == 経歴 == 1924年(大正13年)1月28日、東京市の下谷に生まれる。早5歳にして琵琶を弾く。8歳には琵琶教師の免状を得た。 その後、歌謡曲に興味を持ち、九段にあった「大村能章歌謡学院」に入った。日華事変が起こった後は、学院の生徒と共に軍の病院などで慰問活動を行う。女学校の低学年にも関わらず、彼女が唄うと、アンコールの声が鳴り止まなかった。1939年(昭和14年)、テイチクやポリドールからの誘いもあったが、恩師大村の勧めもあり、コロムビアのテストを受け、一度でパスし専属になった。デビュー曲は「噯噯噯」であった。しかし、この曲は、検閲により発売禁止という憂き目に合ってしまった。その後は、「相呼ぶ歌」や「愛馬花嫁」がヒット。その中でも、松竹映画「湖畔の別れ」主題歌「湖畔の乙女」は、大ヒットした。 戦後、テイチク移籍後の1947年(昭和22年)には、娼婦に身をやつした女性の心情を歌った「星の流れに」が大ヒット。「こんな女に誰がした」という歌詞は、当時の風俗を象徴しているような内容である。1948年(昭和23年)、作曲家の大久保徳二郎と結婚(1956年に離婚)。その後は「母紅梅の唄」など、いわゆる“母物映画”の主題歌のヒットが続いた。1954年(昭和29年)には、息子が乗っていると信じ、引揚船を待ち続ける母の姿を歌った「岸壁の母」がヒット。1957年(昭和32年)にビクターへ移籍するもヒット曲には恵まれず、歌手業から遠ざかり、渋谷の道玄坂でレコード店「キクチ」を経営する。1967年(昭和42年)に復帰し、懐メロ番組などに出演する。 1977年(昭和52年)、ディック・ミネプロデュースによる「沖縄の母」発売。 2000年(平成12年)、勲四等瑞宝章を受章。 2002年(平成14年)4月7日、心不全で死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菊池章子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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