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本項では北海道の神社、神社行政について、主に歴史的な観点から概説する。 明治の神仏分離以前は神道と仏教は混淆しており、古い寺社について仏寺と神社を明確に弁別することはできない。例えば現在は厳島神社と称する神社の多くは、仏教的な弁天堂や弁天社と呼ばれていた。後述する脇澤山神社の鰐口には弥陀信仰の銘が刻まれている。 ここでは神仏分離後に神社として存立したものを神社とみなし、神仏分離以前のものについても「神社」と表現する。 ==北海道と松前地・蝦夷地== 一般に蝦夷地は北海道の旧称として用いられるが、「蝦夷地」という語を文字通り解釈すると蝦夷の住む地ということになる。この観点では、和人が住むようになった北海道の南部は、「蝦夷地」ではない。「北海道」という呼称は明治以降のものであるが、本項では便宜上、それ以前の時代についても「北海道」とする。 戦国時代から江戸時代には、北海道の南部で和人による支配地(松前藩)が確立した。歴史的観点から、北海道を「松前地(和人地、口蝦夷、旧開地)」と「蝦夷地(奥蝦夷、新開地)」に分ける考え方もある〔『北海道神宮史』p5-6〕。この考え方は一般に普及した分け方とは言えないとしても、北海道の歴史を概観する上では便利である 〔寛政11年(1799年)以降、ロシアの南下政策への対策として、幕府は北海道の一部もしくは全部を直轄とする政策をとった。直轄地域はしばしば変更になり、松前藩の支配域もその都度大きく移動させられている。このため「松前地」を松前藩の支配地という意味で厳密に使用するのであれば、その範囲は数年から数十年ごとに大きく変更しなければならない。東北地方に移封されていた時期もあるし、関東地方に領地を有していた時期もある。また、律令制の国という観点では、松前地(北海道の南部)が陸奥国の一部として扱われた時代もある。松前藩の支配力も時代とともに変遷しており、胆振地方や後志地方までも含む場合もある。本項ではこうした経緯とは関わらず、北海道のうち松前藩の影響下にあった範囲、概ね北海道の南部、渡島半島のほぼ全域を指して「松前地」や「道南地方」と称することとする。渡島国なども参照。〕 。松前藩の支配地域は時代によって大きく変わっているため、どこまでを「松前地」とするかは厳密には注意を要するが、ここでは概ね道南の和人地の意味で「松前地」といい、それ以外の地域を狭義の「蝦夷地」とする。 北海道は冷涼な気候ゆえに稲作に適さず、松前藩では米による石高制のかわりに、主に海産物の収入に基づく知行を行なった。これはアイヌとの交易によって行われ、北海道の沿岸部には「場所」と呼ばれる交易拠点が設けられた。江戸時代の中期には、商人が場所を独占して交易を行う場所請が制度化された。これらを通じて、(狭義の)蝦夷地にも和人の集落ができるようになり、各地にも神社が設けられた。 江戸時代の後期には、ロシアの南下政策への対抗上、幕府による北海道の直轄が試みられた。このため、松前藩の支配地・幕府の支配地・(狭義の)蝦夷地の範囲は19世紀にしばしば変更されている。この時期に蝦夷地警護のために武士団が北海道の各地に派遣され、彼らによって神社が創建された。 明治になると、開拓者が北海道各地に入植するようになり、彼らによって神社が建立された。やがて、これらの諸社は国家神道の観点から体系化される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北海道の神社の歴史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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