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菱川 文博(ひしかわ ふみひろ、1925年2月1日 - )は元コナミ株式会社名誉会長、株式会社オートセブン社外取締役。 == 経歴 == 兵庫県明石市出身。 旧制明石中学校時代は、吹奏楽部で大太鼓を担当。県の選抜演奏チームにも選ばれ、中学校野球大会(今の高校野球)の入場行進は、5年間出場した。軍国主義に反対し、陸軍士官学校で放校処分を受ける。1945年8月6日、駐屯先に行く途中の列車の中で、広島で投下された原子爆弾により被爆。さらに3日後の8月9日、駐屯地の長崎でも原爆が投下され、再び被爆する。特に長崎では爆心地から約2.5kmの所に居て、何mか跳ね飛ばされた。このため被爆手帳は長崎での被爆で取得した。翌日から所属する中隊は長崎市内で救助活動を行ったが、中隊長に駐屯地の留守役を小隊長と2名で行うよう命じられる。駐屯地が郊外にあったため、浴びた放射能の量が少なかった。他の隊員の多くは被爆の後遺症で短命の者が多かったという。 終戦後、神戸大学を卒業し、兵庫県庁に入庁。昭和30年、自治大学校を首席で卒業し、青少年局長・阪神県民長・企画部長を務める。退職前に行われる予定の明石市市長選への出馬を検討していたところ、コナミ工業創業者・上月景正の要請で、1984年、同社の会長に就任。1988年には社長と成り、1993年まで務めた。 名誉会長を4年経験した後、武庫川女子大学短期大学部の講師を務める。その後、オートセブンの社外取締役としての勤務の他、講演活動も行う。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菱川文博」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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