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萩原 克己(はぎわら かつき、1949年 - 2013年10月30日)は、2004年11月に設立された新生「エレックレコード株式会社」代表取締役社長、音楽評論家。神奈川県横浜市出身。 ==来歴== 1968年、19歳でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト全国大会にバンド「マックス」のドラマーとして出場しグループサウンド部門優勝〔同部門に吉田拓郎のバンド「ザ・ダウタウンズ」も出場したが、4位。(『いつも見ていた広島』 - 田家秀樹、小学館)〕〔全日本ライト・ミュージック・コンテスト 〕。「マックス」は1970年、よしだたくろうの『青春の詩』のレコーディングでバックバンドを担当した〔「青春の詩」ライナーノーツ〕他に、泉谷しげる、大橋純子、古井戸らのスタジオミュージシャンやバックバンドとして活躍し、エレックレコードのアーティストのリズムセクションを支えた。 1972年、旧エレックレコードに入社し、制作ディレクター、制作宣伝部長を歴任。山崎ハコ、ナイアガラ・レーベル(大瀧詠一)、シュガー・ベイブ(山下達郎、大貫妙子他)らを担当。エレックレコード倒産後の1977年にポリドール・レコードと契約。水越けいこや香坂みゆき、欧陽菲菲、秋吉久美子、カシオペア、JIMSAKU、外道らをプロデュースした。 1996年、ミュー音楽出版社を設立〔エレックレコード社長・萩原克己さんに聞く「思い出のアーティストたち」 <前編>シニアコム.JP内〕。晩年は月刊スカイパーフェクTV!(ぴあ刊)にて自伝エッセイ「翼の生えた犬」連載していた。 2013年10月30日、死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「萩原克己」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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