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萩原 吉太郎(はぎわら きちたろう、1902年12月15日 - 2001年8月8日)は、日本の実業家。埼玉県出身。藍綬褒章、勲一等瑞宝章受章(1973年)。 == 経歴・人物 == 1926年、慶應義塾大学理財科(現・経済学部)卒業。在学中は高橋誠一郎教授(後に吉田茂内閣文相)に認められ、学校に残ることを勧められたほどであった。 卒業後、三井合名に入社。後に三井合名常務理事から北海道炭礦汽船(北炭)会長となった島田勝之助の目に留まり、1940年島田とともに北海道炭礦汽船へ移る。 1947年に常務取締役、1955年に社長制が敷かれ初代社長に就任。児玉誉士夫〔夕張炭鉱の労組弾圧、切り崩しに従事していた。萩原の隠し子を養女として引取り、入籍させた。互助関係は息子の代にわたる。萩原系の札幌テレビ放送、児玉関連企業の博栄商事・八州観光開発・熱海観光道路の各社で、萩原次郎、児玉博隆の二人が取締役に就いた。〕の協力により、対立していた万仲余所治〔常務時代に労組と組んだ協約がGHQの呼び出しで甘さを追及されていた。〕に競り勝つ形で実現したものである〔竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 92-93〕。 1958年、北炭の不動産管理会社として北海道不動産(グランビスタ ホテル&リゾートの前身)を設立、北炭が従来持っていた不動産などを利用して炭鉱が斜陽化した時期に観光産業に参入し、札幌テレビ放送(STV)を設立することで放送事業にも参入。 STVでは会長→社長(1965.11.26-)→社長(1973.5.24-)→相談役(1982.11.1-)→取締役相談役(1994.6.29-2001.4.27)を歴任。 また、昭和の大横綱である大鵬幸喜の後援会会長に就任し、彼の結婚式の媒酌人も務めた。 「政商」と呼ばれ、児玉誉士夫、永田雅一と古くから親交を結んでいたほか、三木武吉、大野伴睦、河野一郎ら党人派政治家と交流を持ち、事業においても政治力を駆使してきたが、エネルギー革命の波に抗うことも叶わなかった。 1981年に北炭夕張新炭鉱ガス突出事故が発生し、その責任を取る形で会長を辞任、翌年1982年に夕張新炭鉱は閉山に追い込まれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「萩原吉太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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