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万朶隊(ばんだたい。萬朶隊)は、日本陸軍航空隊初の特別攻撃隊である。1944年(昭和19年)10月21日、鉾田教導飛行師団で編成された。装備機種は九九式双発軽爆撃機。 == 概要 == 日本陸軍では、1944年前半頃から航空機による艦船への体当り攻撃を検討していた。海軍機と異なって対艦攻撃を本来の任務としてこなかった陸軍航空隊では、艦船攻撃用の新戦術を必要としており、跳飛爆撃と並んで体当りが検討されたのである。 7月末には、機首に起爆装置を取り付ける特攻用九九双軽の改装も着手された。現場が自発的に体当たりを行う例も出てきており、同年10月19日には中尉阿部信弘(元総理で当時の朝鮮総督だった阿部信行の子)以下3機がイギリス艦隊に体当たりして航空母艦1隻大破・駆逐艦2隻撃沈と認定されていた。10月17日には海軍が最初の組織的な特別攻撃隊を編成し、21日から出撃を開始していた。 こうした状況下で、10月21日、陸軍も特別攻撃隊の編成に踏み切った。鉾田教導飛行師団で編成された部隊(後の万朶隊)と同時に、浜松教導飛行師団において四式重爆撃機装備の特別攻撃隊「富嶽隊」も編成されている。いずれも飛行学校改編の教導飛行師団の精鋭が投入された。鉾田の特別攻撃隊隊長に任命された陸軍大尉岩本益臣は、それまで教官としてもう一つの新戦術である跳飛爆撃研究を行っていた。 編成された特別攻撃隊は第4航空軍の指揮下に入り、10月29日にルソン島バタンガス州リパへ進出し、現地で「万朶隊」と命名された。万朶とは多くの花の枝、または多くの花、という意味である。しかし、出撃前に移動中の敵戦闘機との遭遇などで損害を受け、11月5日、岩本が出撃叶う前に戦死してしまう。それから1週間後の11月12日、神風特攻隊に遅れること3週間の後に4機が初の特攻出撃を行い、以後12月までレイテ湾へと出撃を繰り返した。多数の戦果を報じたが、事実は不明である。 隊員の大部分は戦死したが、佐々木友次伍長は機体故障での途中帰投や通常爆撃による攻撃などを9回以上行い続けるも、かろうじで唯一生存した。佐々木はその後のミンドロ島方面への出撃でも生還を果たし、ルソン島で生きて終戦を迎えた。 特別攻撃用に改造された当初の九九式双発軽爆撃機は、空中で爆弾が投下できない状態になっていた。鉾田からルソン到着までの間に陸軍航空審査部に立ち寄った岩本大尉は、爆弾の安全装置離脱と緊急時の爆弾投下を可能にする助言説明を受け、レイテ出撃までに飛行機には最小限の安全措置改修が加えられていた〔『比島捷号陸軍航空作戦』346-347頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「万朶隊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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