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萱振(かやふり)は、大阪府八尾市内の一地域。現住所表記施行前の大字萱振だった地域。 現住所表記の萱振町、楠根町、小畑町、長池町、光町、桜ヶ丘、緑ヶ丘、旭ヶ丘の各町にあたる。 ==歴史== ===近代以前=== (日本 > 畿内 > 河内国 > 若江郡 > 萱振村、南萱振村) 萱振村、南萱振村は若江郡に属し、八尾から北の若江各村へ通じる街道(河内街道)沿いに位置し、村の中心部は街道に接している。付近を流れる楠根川の水運で栄えたと考えられている。 縄文時代にはすでにこの辺りに人々が住居を築いていたとされ、現在の萱振町7丁目にある八尾北高校の建設工事に伴う発掘調査で縄文晩期の土器片や弥生中期の遺構をはじめ、古墳時代前期の方形墳(萱振1号墳)、奈良時代の建物跡・井戸跡などが発見されている。 (萱振遺跡) 室町時代初期・南北朝時代に萱振城がこの地に築かれ、北朝方の拠点の一つであったとされている。延元3年(1338年)に南朝方の高木遠盛と天王寺から来た北軍とがこの地でぶつかり合戦となり、南朝方は城を焼き払い、辺りは焼け野原となった。 その後、康正2年(1456年)には、畠山政長と畠山義就がこの地で合戦をしていることが『南方紀伝』に記されている。同族同士の戦いだったため、敵味方を区別するため幟を旗印としたが、これが旗差物を用いた最初の戦とされている。 16世紀に入ると、畠山氏の家臣団の中に河内国の国人である萱振氏が当時の資料に登場する。萱振の地名の由来は萱振氏の出身地あるいはこの辺りを勢力地としていたからとされている。河内国守護所として高屋城に居城していたが、安見宗房に攻め滅ぼされている。 文明2年(1470年)に本願寺の蓮如上人がこの地に恵光寺を建立、その後、蓮如の息子の蓮淳が初代住持として入り、周囲に環濠を巡らすようになり、環濠集落、寺内町の様相となり、一向宗の拠点となっていった。 天正2年(1574年)、三好一族が石山本願寺と示し合わせて萱振城に立て籠もり、織田信長と対峙したが攻められて、この辺りはまたもや焼け野原となった。 江戸時代には幕府直轄領となり、のちに萱振村は大坂城代に、南萱振村は大坂定番により支配された。石高は萱振村が1345石余り、南萱振村が360石余り。享和元年(1801年)に萱振村の596石余と南萱振村が大和郡山藩支配地となり幕末に至っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「萱振」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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