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佐々木 孝丸(ささき たかまる、1898年1月30日 - 1986年12月28日)は、日本の俳優、プロレタリア作家、演出家、劇作家。 戦前のプロレタリア演劇運動の中心人物であり、演出家・俳優として先駆座、前衛座、東京左翼劇場に参加。落合三郎の筆名でフランス文学の翻訳や『筑波秘録』などのプロレタリア戯曲も執筆しており、革命歌「インターナショナル」の日本語訳詞者としても知られている。また、亡くなるまで熱心なエスペランティストであった。戦後は映画、テレビドラマで脇役俳優として活躍した。著書に『風雪新劇志 わが半生の記』など。元女優の佐々木踏絵は娘、俳優の千秋実は娘婿にあたる。孫の佐々木勝彦も俳優。 == 来歴・人物 == 1898年(明治31年)1月30日、北海道川上郡標茶町に釧路監獄の教誨師をしていた僧侶の3男として生まれる〔キネマ旬報1979、p.239〕〔塩田庄兵衛『日本社会運動人名辞典』、青木書店、1979年、p.278〕。1905年(明治38年)、父が実家の寺を継ぐことになり、香川県綾歌郡端岡村(現在の高松市国分寺町)に移住する〔〔〔『「種蒔く人」の潮流 世界主義・平和の文学』、文治堂書店、1999年、p.181〕。高等小学校卒業後、後継ぎにさせられるが、僧職を嫌ったため、1913年(大正2年)に神戸通信生養成所に入り、同年暮れから3年間、神戸郵便局電信課で通信事務員として働く〔〔。この間、硯友社の文学者を始め、島崎藤村、田山花袋、徳田秋声、正宗白鳥、国木田独歩らの本を濫読し、同人たちと神戸文学会を結成して回覧雑誌を発行していた〔〔地域の本棚 二 坂出・丸亀周辺を行く 〕。1915年(大正4年)、神戸多門座に公演にやって来た芸術座の公演『サロメ』を観劇し、新劇の世界に興味を持った。 1916年(大正5年)、上京し赤坂葵町の電信局に転勤。同時にアテネ・フランセに通ってフランス語を学んだ〔山田清三郎『プロレタリア文化の青春像』、新日本出版社、1983年、p.79〕。同年、佐藤誠也の紹介で秋田雨雀を知る〔。1920年(大正9年)に秋田らと中村屋の2階で創作戯曲の朗読会「土の会」を結成。1921年(大正10年)、ミュッセ作『二人の愛人』を翻訳、処女出版作となった〔。同年、小牧近江らとともに雑誌『種蒔く人』を創刊し、同人となる。1923年(大正12年)、秋田らの先駆座に参加し、プロレタリア演劇運動に従事する。また、落合三郎の筆名で『赤と黒』『脂肪の塊』などを翻訳〔し、『筑波秘録』『地獄の審判』などの戯曲も執筆した。 1926年(大正15年)2月、日本プロレタリア文芸連盟演劇部所属の移動劇団・トランク劇場を結成し、武者小路実篤作『ある日の一休』を上演。同年12月に文芸連盟は日本プロレタリア芸術連盟(略称:芸連)に改組され、それに伴い村山知義、千田是也と前衛座を結成。翌1927年(昭和2年)、前衛芸術家同盟の結成で前衛劇場を立ち上げ。1928年(昭和3年)、村山、佐野碩らと東京左翼劇場を結成し、第1回公演『礫茂左衛門』に主演、同劇場で『不在地主』『炭塵』『斬られの仙太』等を演出した。やがて新築地劇団を経て日本プロレタリア劇場同盟(略称:プロット)の初代執行委員長を歴任した。1930年(昭和5年)、中村翫右衛門らの大衆座(前進座の前身)のために自作の『筑波秘録』を演出するが、弾圧を受けて再三投獄されている〔キネマ旬報1979、p.240〕。戦後は娘婿の千秋実らが結成した薔薇座に関係し〔佐々木孝丸 、新撰 芸能人物事典 明治~平成、コトバンク、2014年12月6日閲覧〕、前進座、新国劇などの演出を手掛けていた〔。 一方、1950年(昭和25年)に山本薩夫監督の『暴力の街』に出演して以来、各社の映画に脇役出演した。やがてテレビドラマにも多く出演し、時代劇や刑事ドラマで憎々しい大物悪役として強烈な存在感を発揮した。任侠映画や大作映画では右翼の大物などの黒幕役として重厚な演技を見せ、特撮作品では博士や科学者など知性派の役も数多く演じている。 1971年(昭和46年)から日本俳優連合(旧・放送芸能家協会)の理事長を務め〔日本俳優連合30年史 佐々木考丸理事長にバトンタッチ 、日本俳優連合公式サイト、2014年12月6日閲覧〕、1982年(昭和57年)に高齢を理由に森繁久彌に地位を譲った〔日本俳優連合30年史 理事長の交代 、日本俳優連合公式サイト、2014年12月6日閲覧〕。 戦前、秋田雨雀らとともにプロレタリア・エスペラント運動に従事。戦後も日本のエスペラント界に貢献し、亡くなるまで調布エスペラント会会長を務めた。エスペラントによる著作に''Mia Kaŝita Vivo''(わが秘められた人生、1978年)がある。 1986年(昭和61年)12月28日、心不全のため、東京都世田谷区の自宅で死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐々木孝丸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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