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落合弘 : ミニ英和和英辞書
落合弘[おちあい ひろし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おち]
 【名詞】 1. joke punch line 
: [ごう]
 【名詞】 1. go (approx. 0.18l or 0.33m) 

落合弘 : ウィキペディア日本語版
落合弘[おちあい ひろし]

落合 弘(おちあい ひろし、旧姓:山田1946年2月28日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現「浦和レッドダイヤモンズ ハートフルクラブ」キャプテン。元々はFWや攻撃的MFを務めていた〔井口, 54-55頁〕が年齢と共にポジションを下げ、守備的MFやセンターバック、サイドバックをこなすなど守備のユーティリティプレーヤーとして活躍した。
== 来歴 ==
浦和市立高等学校で1年次からレギュラーとして活躍し1962年と63年の国民体育大会で2連覇。全国高等学校サッカー選手権大会では1年次から3大会連続出場を果たし2年次に準優勝、3年次には3位入賞。日本ユース代表としては1963年から1965年の間に13試合出場5得点を記録した〔。
高校卒業後は東京芝浦電気に入社し同社サッカー部に加入したが1966年に東芝を退社。同年に三菱重工に入社し同社サッカー部に加入した。1969年に結婚して「落合」に改姓。同年の日本サッカーリーグでは釜本邦茂を2得点差で上回り得点王となったが、この年を境に相手DFからのマークが厳しくなったことから得点は激減し〔、攻撃的MFとしてゲームメイクに専念するようになった。
1973年に三菱の監督だった二宮寛によりストッパーにコンバート〔。その後リベロにポジションを移し、この年から9年連続でベストイレブンに選ばれるなどリーグ屈指のDFとして活躍した。三菱では主将として天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝4回、日本サッカーリーグ優勝3回、JSLカップ優勝2回に貢献。1978年9月23日に駒沢競技場で行われた日本鋼管戦でリーグ初の200試合連続出場を達成、同年には年間最優秀選手賞を受賞した。その後1982年に連続試合出場記録を260まで伸ばし〔1984年に現役を引退した。JSLでの通算記録は267試合出場(歴代2位〔)56得点。また、天皇杯においては、国立霞ヶ丘陸上競技場で開催された試合のうち19試合に出場しており、これは2位の釜本邦茂の16試合を3試合上回る歴代1位の記録である。
日本代表としては1966年にデビュー。1976年のモントリオールオリンピック予選や1980年のモスクワオリンピック予選に出場するなど国際Aマッチ63試合に出場し17得点を記録した〔。1968年のメキシコシティオリンピック以降低迷の続く日本代表の中でチームを牽引する存在だった〔。
引退後は指導者に転じ、1988年から1992年まで日本代表コーチ、1992年から1993年まで三菱重工の後継である浦和レッドダイヤモンズのコーチを歴任。2003年からは、サッカーを通じてコミュニケーションを図ることを目的とした、「浦和レッドダイヤモンズ ハートフルクラブ」キャプテンに就任し、各地の小・中学校、高校、大学などを訪問し普及に努めている。
2010年8月17日日本サッカー殿堂入りが発表された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「落合弘」の詳細全文を読む




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