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葉 剣英(よう けんえい〔「ようけんえい」は慣用音で、が、これは漢字の反切にもとづくものである。集韻の失渉切の葉に「県なり、また姓なり」とあり、諸橋轍次「大漢和辞典」でも姓を「セフ」とする。両書ともに現代音では「しょう」となる。しかしながら、藤堂明保『漢和大字典』では「葉」の項に、「今では、人名も地名も『ヨウ』と読む。」との注釈があり、高島俊男は、著書において「『葉(しょう)』という姓は、中国では宋代からYè(日本語音写音「ヨウ」)と発音されるようになり、今では歴史上の人物を含めYèと発音する。日本では古くからの呼び方が残っていて、だいたい19世紀末くらいまでの人は「しょう(セフ)」と言っている」(大意 『「馮」姓漫談』-漢字検定のアホらしさ: ISBN 978-4-89772-252-8 収録)旨記述している。〕、1897年4月28日 - 1986年10月22日、元の名は宜偉、字は滄白)は、中華人民共和国の軍人、政治家。中国人民解放軍の創立者の一人で、中華人民共和国元帥。国防部長や全国人民代表大会常務委員会委員長、中国共産党中央軍事委員会副主席兼秘書長、中国共産党中央委員会副主席などの要職を歴任。また、1975年1月から1983年6月の間は全人代常務委員会が国家元首の権能を果たしていたので、全人代常務委員長として在任中、彼が中華人民共和国の国家元首格であった。 == 生涯 == 1897年4月28日、広東省梅県雁洋堡下虎形村の客家の豪商の家に生まれる。 1917年、雲南陸軍講武学校に入学し、朱徳の影響を受ける。卒業後、黄埔軍官学校で教官生活を送り、ここで周恩来と出会う。1927年に中国共産党に入党した。同年の南昌起義に参加し、敗北すると香港に逃亡。その後、モスクワ中山大学で軍事科学を学んだ。 1932年に中国に戻り、中華ソビエト共和国に参加、演劇学校の校長を務めるなどした。張国涛の指揮下、第四軍の参謀長となり、長征においては、劉伯承を補佐し長江の渡河を指揮、1935年に毛沢東と張国涛とが対立した際には毛沢東を支持した。1936年以降は西安、南京、そして最終的に重慶における中国国民党との連絡将校として、周恩来とともに活躍した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「葉剣英」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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