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葉室 光親(はむろ みつちか、安元2年(1176年) - 承久3年7月23日(1221年8月12日))は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての公卿。藤原 光親とも言う。権中納言・藤原光雅の次男。官位は正二位・権中納言。1928年(昭和3年)11月10日、贈従一位〔『官報』号外、「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。〕 == 経歴 == 寿永2年(1183年)六位蔵人となりまもなく叙爵され、のち豊前守・兵部権大輔・左衛門権佐・防鴨河使などを歴任する。正治2年(1200年)右少弁に任ぜられると、翌建仁元年(1201年)権左少弁に昇進し五位蔵人を兼ね、元久元年(1204年)にはさらに左衛門権佐を兼任して三事兼帯となった。建永元年(1206年)蔵人頭・右大弁を経て、承元2年(1208年)従三位・参議に叙任され公卿に列した。 その後、建暦元年(1211年)正三位・権中納言に昇進するが、建保2年(1214年)権中納言を辞任する。建保4年(1216年)正月に権中納言に還任されるが、同年6月再び辞任し、翌建保5年(1217年)正二位に昇叙された。またこの間議政官として、右兵衛督・検非違使別当・按察使を兼任した。 一方で光親は後鳥羽院の側近として年預別当や、順徳天皇の執事、近衛家実や藤原麗子の家司なども務めた。 承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、光親は北条義時討伐の院宣を後鳥羽院の院司として執筆するなど〔『吾妻鏡』承久三年七月十二日。『北条泰時』〈人物叢書〉44頁。〕、後鳥羽上皇方の中心人物として活動。しかし実際は上皇の倒幕計画の無謀さを憂いて幾度も諫言していたが〔、後鳥羽上皇に聞き入れられることはなかった。 光親は清廉で純潔な心の持ち主で、同じく捕らえられた同僚の坊門忠信の助命が叶ったと知った時、心から喜んだといわれるほど清廉で心の美しい人物だったという〔。戦後、君側の奸として捕らえられ、甲斐の加古坂(山梨県南都留郡)処刑されることとなる〔。享年46。処刑の直前に出家して西親と号し、武田信光に斬首された。 北条泰時はその死後に光親が上皇を諌めるために執筆した諫状を目にし、光親を処刑した事を酷く悔やんだという〔『北条泰時』〈人物叢書〉45頁。〕。 『中都記』ないし『心言記』と呼ばれる日記を著していたが、散逸甚だしく保存状態はあまり良好ではない。光親は封建道徳における忠臣であった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「葉室光親」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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