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葉 楚傖(よう そそう)は清末から中華民国にかけてのジャーナリスト・政治家。中国同盟会以来の革命派人士で、ジャーナリストとして活動する。後に中国国民党(国民政府)の政治家となり、西山会議派の一員として反共右派の立場をとった。原名は宗源。字は卓書。 == 事跡 == === ジャーナリストへの道 === 父は秀才の家庭に生まれる。葉楚傖自身も当初は学問を志し、県試・府試に合格したが、院試には落第した。1903年(光緒29年)、上海南洋公学に入学し、さらに潯渓公学に移った。しかし数ヶ月で学生デモにより同公学は解散されてしまう。その後の葉は、革命派の思想に傾倒するようになる。1904年(光緒30年)、蘇州高等学堂に入学したが、学校の監督者との対立から学堂を去る。 まもなく、葉楚傖は広東省汕頭に移って、従兄が主筆を務めていた『中華新報』に入る。そして、病気の従兄の代理として主筆をつとめた。1909年(宣統元年)春に中国同盟会に加入すると、『中華新報』を舞台に、反清・革命派の宣伝に従事している。1911年(宣統3年)に『中華新報』は発禁処分を受けた。しかし葉は、すぐに『新中華報』として復刊し、さらにそれまでの主張を宣伝し続けた。 同年10月、辛亥革命が勃発すると、葉楚傖自身も革命派の軍に加入し、清朝の軍隊との戦闘に参加した。戦後は再びジャーナリストに戻り、上海で創刊された『太平洋日報』、『民立報』(于右任・邵力子らが創刊)に加わって、袁世凱批判の論陣を張った。また、柳亜子らの南社にも加入している。1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)の敗北とともに、『民立報』は廃刊に追い込まれた。しかしその後も、葉は『生活日報』などで小説・詩文等を書いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「葉楚ソウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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