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葛山信貞 : ミニ英和和英辞書
葛山信貞[かつらやま のぶさだ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くず]
 【名詞】 1. (Japanese) arrowroot 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 

葛山信貞 : ウィキペディア日本語版
葛山信貞[かつらやま のぶさだ]
葛山 信貞(かつらやま のぶさだ、? - 天正10年(1582年)3月)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将駿河国葛山領の分郡領主で、葛山城城主。甲斐国戦国大名武田信玄の六男(武田氏系図類による)、生母は油川夫人と伝わる。通称は六郎・十郎、初名は義久。「信」は武田氏通字。生年は不詳であるが、永禄2年(1559年)以前の出生と推定されている。
駿相国境に位置する駿河駿東郡領主である葛山氏元の養子となり、氏元の次女「おふち」を正室に迎え葛山領を継承する。信玄前期には、信濃侵攻において服従させた信濃国名族に対し実子に名跡を継がせて懐柔させる支配政策を行っており、信貞の異母兄の勝頼諏訪氏を、同母兄の盛信仁科氏をそれぞれ継承しており、葛山氏を継承した信貞も駿河における同様の支配方針であると位置づけられている。
== 略歴 ==
武田氏は信玄後期に南進政策へと転換し、永禄11年(1568年)には駿河今川氏との甲駿同盟が破綻し駿河侵攻(第一次)が行われる(甲駿同盟破綻の経過で異母兄の武田義信が廃嫡されている)。武田勢が駿河へ侵攻すると、駿東郡領主の葛山氏元をはじめとした今川家臣も武田方に内応し、相模の後北条氏が駿相同盟に基づいて今川領国に出兵したため葛山領は北条勢により接収された。氏元は富士郡へ逃れ元亀元年(1570年)3月以降には動向がわからなくなるが、元亀2年(1571年)には武田方による駿東郡の深沢城が奪還されると旧葛山領は回復し、同年には甲相同盟の復活で支配も安定化した。元亀3年(1572年)には信玄による葛山領での発給文書が見られ、正確な時期は不明だがこの頃には信貞の葛山氏継承が懸案されていたと考えられている。
継承直後の信貞は10代前半と推定されており、葛山領での発給文書も多くが信玄判物であることから、信貞は葛山城には在城せず甲府在府であったと考えられている。現地での政務は葛山家臣であった御宿友綱は後見役として現地で政務を代行していた文書が見られるが、武田氏領国のうち葛山領は信玄・勝頼の判物が多いことが指摘されており、葛山氏の分郡領主化は完成せず支配も安定的でなかった可能性が指摘されている。
天正10年(1582年)、織田信長甲州征伐により、兄の武田勝頼は甲斐国内において滅亡し、信貞も甲府の甲斐善光寺において自刃した。これにより葛山氏も滅亡した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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