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久保田城(くぼたじょう)は、羽後国(旧出羽国)秋田郡久保田(現在の秋田県秋田市千秋公園近辺)にあった日本の城である。 == 概要 == 久保田藩主佐竹氏の居城である。矢留城、葛根城とも呼ばれる。江戸時代後期の公式文書では「秋田城」と書かれることも多かったが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは所在地ともに別の城であり、秋田市指定の名勝としての正式名称は「千秋公園(久保田城跡)」となっている〔秋田市内指定文化財等件数一覧表 - 名勝 、2015年7月20日閲覧。〕。 雄物川の支流である旭川の左岸、程野村窪田〔城下町の基となった窪田の地は川尻村に属するが、神明山は別名として保戸野村山とも呼ばれ、程野村に属していた。〕にある神明山(しんめいやま、標高40m)に築かれた平山城。石垣は基底部に僅かにあるのみでその上に土塁を盛られており(鉢巻土手)、天守も持たず塁上に「出し御書院」と呼ばれる櫓座敷を建ててその代わりとし、他に8棟の櫓を建て並べていた〔「久保田城ものがたり」71ページ。〕。石垣が無いのは幕府に遠慮したためとも言われるが、佐竹氏の旧領常陸国を含む東国ではもともと石垣を用いない築城法が一般的であったため、石垣作りに精通した者が家中に居なかったという説もある(但し後に江戸城の修築を命じられた時、佐竹氏は石垣の普請も担当している〔「久保田城ものがたり」66ページ。〕)。いずれにせよ山川沼沢を巧みに利用し防御を図っており、水堀や円郭式城郭など西国の様式も採り入れられている。なお、天守については、寛永10年(1633年)の火災以前には「御三階櫓」があったという説があるが、この時期の城内を描いた絵図などは残されておらず、確証は得られていない。 1880年(明治13年)の大火で城内の建造物はほぼ焼失しており、市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられ、城下の中通を中心に秋田県初期の官庁街へと変貌した。現在、久保田城本丸・二の丸一帯は千秋公園となり、三の丸には秋田県民会館や秋田市立中央図書館明徳館、平野政吉美術館、秋田県立脳血管研究センターなどが整備されている。秋田県知事公舎は三の丸御殿の跡地に建てられている。建造物としては、前述の大火を逃れかつ解体も移築もされなかった御物頭御番所〔建造は18世紀後半。1758年(宝暦8年)から1778年(安永7年)にかけてと推定されている。〕が現存し、本丸新兵具隅櫓(御隅櫓)〔本来は2層の櫓であったが、望楼風の展望台を追加した3層4階建ての模擬櫓として再建されている。〕、本丸表門が再建されている。他に焼失前に移築したとされる久保田城の裏門が、楼門から平屋へと改造をされてはいるものの、同市鱗勝院へと移築され、同市休宝寺には、明治4年に払い下げられたとされる書院が現存している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久保田城」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kubota Castle 」があります。 スポンサード リンク
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