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董 和(とう か/とう わ、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。荊州南郡枝江県の人。字は幼宰。子は董允。孫の名は不詳。曾孫は董宏。『三国志』蜀志に伝がある。 == 生涯 == 先祖は益州巴郡江州県の出身だという。 後漢末期、一族を引き連れて益州に移住した。劉璋に採り立てられ、牛鞞県長・江原県長・成都県令に任命された。董和は赴任した地域において法を厳格にし、自分自身も倹約に努めたため、贅沢に乱れた風俗が引き締まり、法に違反する者がなくなったという。地域の有力者らが董和のやり方を嫌い、劉璋に董和を遠ざけるよう進言すると、董和は巴東郡の属国都尉に転任が決まった。しかし、領民が董和を慕っていたため、留任の嘆願が出され、その嘆願者が数1000人にもなったことを受け、転任は2年間保留になったという。 後に董和は巴東太守に昇格となった。清潔さと倹約振りは以前と変わらなかったという。異民族とも協調したため、南方はよく治まった。 李恢の叔母の夫である爨習が法律違反した時、李恢も連座して免職となるところであったが、董和は爨習が地元で勢力のある豪族出身であることを理由に、罪を許し辞職を認めなかったという。後に董和は李恢を州に推挙している(『三国志』蜀志「李恢伝」)。 劉備が益州に入ると、董和は掌軍中郎将に任じられた。諸葛亮と共に左将軍大司馬府の事務を担当し、仕事の無駄を省くと共に、諸葛亮とも親しく付き合った。 董和は内外の重職を務めて20年以上となったが、家には余財がなかったという。 後に諸葛亮は董和のことを追慕し、部下の役人に董和の仕事振りを見習うよう訓示した。 子は父に劣らず優秀で、後の黄皓による専横を抑えるなど活躍した。しかし董和は許靖の子の葬儀での一件から、自分の子よりも費禕の方が有能であると考えるようになったという(『三国志』蜀志「費禕伝」)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「董和」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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