|
董 康(とう こう)は中華民国の政治家・法学者。北京政府の要人。後に中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)にも参加した。旧名は寿金。字は授経。号は誦芬主人。 == 事績 == === 北京政府での活動 === 22歳で挙人、1890年(光緒16年)に進士となり、刑部主事を授かった。以後、刑部で各職を歴任している。1902年(光緒28年)からは、法律館提調兼京師法律学堂教務提調、憲政編査館科員、大理院刑庭推事、大理院推丞等を歴任した。この間に、憲法大綱を編纂し、1908年(光緒34年)、清朝により試行されている。1911年(宣統3年)、辛亥革命が勃発すると、日本へ留学し、法律を専攻した。 1914年(民国3年)2月に帰国し、署理大理院院長に任命された。5月、法律編査会副会長兼中央文官高等懲戒委員会委員長となる。8月、正式に大理院院長に任命された。1915年(民国4年)、法典編纂会副会長を兼任する。11月には、全国選挙資格審査会会長となる。1917年(民国6年)11月、大理院地方捕獲審検庁庁長を兼任した。翌年7月、王寵恵とともに、修訂法律館総裁に任命された。 1920年(民国9年)8月、董康は靳雲鵬内閣において司法総長に任命された。この間に、司法官の綱紀粛正につとめたほか、民事訴訟法の改正を行っている。翌年12月、王寵恵が後任の司法総長に任じられたが、就任しなかったため、1922年(民国11年)4月まで、董が総長事務を代理している。 同年の2月、董康は内外短期公債審査委員会委員長に任じられ、用途不明など問題のある公債に審査を加えた。5月、周自斉臨時内閣において署理財政総長をつとめた。しかし、給与引上げを求める政府職員団体の暴力行為で負傷したため、失意と憤懣により8月、辞任した。まもなく大理院長に任ぜられたが、院長の事務をとることなく欧米へ商務・実業の視察に向かう。フランスにあった間に、フランスの国家図書館において唐代の法律資料を収集している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「董康」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|