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董 承(とう しょう、? - 建安5年(200年))は、中国後漢末期の武将。 素性は諸説があるが、一般的には献帝の祖母董太后の親族(甥)〔『三国志』蜀書2先主伝の裴松之注は「董承は霊帝の生母の董太后の姪(「てつ」、甥のこと)である」とする見解を示している。〕とされる。しかし、後世の史家からはその親族関係は疑問であると指摘されている〔『先主伝集解』および盧弼『三国志集解』巻32蜀書8を参照。また、『三国志』魏書6付・李・郭汜伝の注に引く『献帝起居注』では、皇甫酈が「(董卓は)外に董旻・董承・董璜があり鯁毒(ちくま学芸文庫版は、「軍隊の統率者」の意に訳している)としていた」と述べている箇所があり、董旻・董璜がそれぞれ董卓の弟・甥であることを考えると、あたかも董承も董卓の親族であるかのようにされている。ただし、皇甫酈の言う董承については、本記事の董承とは同姓同名の別人の可能性もある。〕。 娘は献帝の貴人(側室)。 == 正史の事跡 == === 洛陽帰還行 === 董承は、元々董卓の娘婿牛輔の部曲であった〔『後漢書』列伝62董卓伝に「(董卓の女婿の)牛輔の部曲(武将)である」と記されている。〕。董卓死後、長安における権力争いの中で、具体的な事跡は不明だが、董承も身を置いていたと見られる。 興平2年(195年)7月、張済の仲介により、・郭汜ら旧董卓軍の将軍たちの間で和解が成立し、献帝が洛陽へ帰還することになった時、董承は安集将軍に任命された。帰途の同年11月、郭汜が謀反して献帝を奪おうとしたため、楊定・楊奉がこれを撃ち破った。郭汜は、献帝を奪い返そうとする李と合流した。 その後、献帝一行が華陰に至ると、同地を統治していた段煨が一行を出迎え、献帝を自陣に迎え入れようとした。しかし、段煨と元々仲が悪かった楊定・が反対し、董承も楊定に与して「郭汜の軍が段煨の兵営に入りました」と献帝に讒言したため、ついに一行は華陰を離れることになった。なお段煨には、献帝を独占しようという野心は無かった。この後、段煨と交戦状態になった楊定は、追撃してきた李・郭にまで挟撃され、進退窮まって荊州へ逃げている〔『後漢書』董卓伝本伝、同伝注袁宏『後漢紀』。〕。 その後、張済も董承・楊奉との対立の末に叛逆し、李・郭軍に加わった。董承・楊奉らは、李・郭・張連合軍と東澗で戦ったが敗北した。それでも曹陽澗まで至ったところで、董承は楊奉と共に、白波帥の胡才・李楽・韓暹、さらには南匈奴の左賢王去卑に呼びかけ、これらを援軍として得ることに成功し、李・郭・張軍を破っている。 しかしその翌月、執拗に追撃してきた李・郭・張軍に、董承・楊奉らはまたしても敗れてしまった。水路を使って逃げる途中、多くの官人たちが船に縋り付いてきたが、董承は矛でこれを撃ち払ったため、官人たちの斬られた手指が船中に転がった。献帝一行は僅か数十人となってしまったが、先行していた李楽や張楊、河東太守王邑らの救援のおかげで、何とか安邑まで逃れた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「董承」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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