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董遵誨[とう じゅんかい] 董 遵誨(とう じゅんかい、926年 - 981年)は、中国の五代から北宋にかけての武将。本貫は涿州范陽県。 == 経歴 == 董宗本の子として生まれた。父が契丹から逃れ劉知遠に仕えて隨州刺史となると、遵誨は父の下で隨州牙校となった。後周の顕徳元年(954年)、世宗が北征したとき、遵誨は舅の高懐徳の下で従軍した。高懐徳の軍が高平にいたり、北漢軍と遭遇すると、遵誨は奇兵を率いて北漢の陣営を先に攻撃した。高懐徳の本隊が次いで押し寄せると、北漢軍は混乱して敗走した。2年(955年)、韓通の下で秦州・鳳州攻撃に従軍した。唐倉で軍の先頭に立って戦い、後蜀の招討使の王鸞を捕らえ、秦州・鳳州を落とした。凱旋すると、功績により東西班押班の位を受け、驍武軍指揮使に転じた。4年(年)、世宗の南唐遠征に従軍して、合肥攻撃に参加した。6年(959年)、韓通の下で雄州・覇州を平定した。 宋の建隆元年(960年)、李筠が沢州・潞州で反乱を起こすと、遵誨は慕容延釗の下で反乱を鎮圧した。馬軍都軍頭となって、現地にとどまって守備にあたった。3年(962年)、召還されて散員都虞候となった。乾徳6年(968年)、通遠軍使に任じられて、タングートの諸族との通交の任にあたった。数カ月後、タングートの反乱が起こると、遵誨は兵を率いて反乱軍を撃破した。軍功が認められて、通遠軍使のまま羅州刺史に任じられた。開宝9年(976年)、太宗が即位すると、霊州路巡検を兼ねた。 太平興国6年(981年)、死去した。享年は56。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「董遵誨」の詳細全文を読む
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