翻訳と辞書
Words near each other
・ 董蘅毅
・ 董衝
・ 董衡
・ 董襲
・ 董訢
・ 董貴妃
・ 董賢
・ 董超
・ 董遵誨
・ 董重
董釗
・ 董顕光
・ 董驃
・ 董鴻イ
・ 董鴻禕
・ 葤
・ 葥
・ 葦
・ 葦の会
・ 葦の髄


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

董釗 ( リダイレクト:董ショウ ) : ウィキペディア日本語版
董ショウ[とう しょう]

董 釗(とう しょう、、1902年7月4日 - 1977年9月30日)は、中華民国台湾)の軍人。介生陝西省西安府長安県の人。
== 事績 ==
西安同志学校を経て1924年黄埔軍官学校第1期歩兵科に入学した。その後、孫文(孫中山)の警衛兵を経て、北京に赴き国民軍第2軍に加入している。1928年(民国17年)、軍事委員会政治訓練処参謀に任命され、1930年(民国19年)、国民革命軍第48師党務特派員に転じた。翌1931年(民国20年)、第28師参謀長として中国共産党(紅軍)包囲掃討作戦に参加している。1934年(民国23年)、第28師師長に昇進した。1936年(民国25年)12月、西安事件勃発に伴い祝紹周洛陽中央軍官分校主任)の命で董釗は潼関を迅速に占領、西安の封鎖に成功した。事件解決後の1937年(民国26年)3月、董は蒲城で部隊の整備・訓練を行い、6月には廬山で自ら訓練を受けている。〔徐主編(2007)、1959頁。〕〔劉国銘主編(2005)、2251頁。〕
日中戦争(抗日戦争)勃発後、董釗は部隊を率いて西安に戻り、西安警備司令兼防空副司令に就任した。しかし1938年(民国27年)春、部隊を率いて徐州の最前線に出撃し、台児荘の戦いに参戦している。9月、第16軍軍長に昇進、10月、河南省南部に赴き、羅信戦役を戦う。11月、西安に引き返して部隊の整備・訓練を進め、西安警備司令兼防空副司令に復任した。1940年(民国29年)11月、董は中国国民党中央訓練団に赴いて訓練を受けている。1941年(民国30年)1月、陝西省に引き返し部隊を率いて三原に駐屯、邠洛動員指揮官兼碉堡線封鎖指揮官となった。1942年(民国31年)4月、第34集団軍副総司令に昇進、翌1943年(民国32年)9月、晋陝綏辺区副総司令に移っている。1944年(民国34年)冬、董は陸軍大学将官班甲級第1期で訓練を受け、翌年1月卒業し第38集団軍総司令に昇進した。〔徐主編(2007)、1959-1960頁。〕〔劉国銘主編(2005)、2251-2252頁。〕
日中戦争終結直後の1945年7月、山西省南部に部隊を率いて出撃し、陳賡率いる冀魯豫野戦軍太岳縦隊を相手に戦闘を繰り広げた。1946年(民国35年)5月、董釗の部隊は整編第1軍に改編され、董は同軍軍長に任ぜられた。1947年(民国36年)、胡宗南の命により延安を攻略した。1948年(民国37年)5月、第18綏靖区司令に就任、同年7月、祝紹周の後任として陝西省政府主席兼保安司令、陝西省党部主任委員となる。1949年(民国38年)5月、西安陥落が迫ったため漢中、さらに四川へ退却した。12月19日、各職から罷免された上で台湾へ逃れた。台湾では委員を務めている。1977年(民国66年)9月30日、台北市にて病没。享年76(満75歳)。〔徐主編(2007)、1960頁。〕〔劉国銘主編(2005)、2252頁。〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「董ショウ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dong Zhao (Kuomintang) 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.