翻訳と辞書
Words near each other
・ 葦本祐二
・ 葦毛
・ 葦毛湿原
・ 葦沙河政治局
・ 葦沢県
・ 葦沢県 (山西省)
・ 葦沢県 (河北省)
・ 葦沢鳴海
・ 葦河県
・ 葦津姫
葦津珍彦
・ 葦牙
・ 葦登
・ 葦稲葉神社
・ 葦穂村
・ 葦立弖神社
・ 葦笛
・ 葦笛るか
・ 葦簀
・ 葦簾


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

葦津珍彦 : ミニ英和和英辞書
葦津珍彦[あしづ うずひこ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よし]
 【名詞】 1. reed 2. bulrush
: [ちん]
  1. (adj-na,n) rare 2. curious 3. strange 

葦津珍彦 : ウィキペディア日本語版
葦津珍彦[あしづ うずひこ]
葦津 珍彦(あしづ うずひこ、1909年(明治42年)7月17日 - 1992年(平成4年)6月10日)は、日本の神道家、保守系思想家。民族派の論客としても著名であった〔堀幸雄『戦後の右翼勢力』勁草書房・1993年・増補版。〕。
== 経歴 ==
葦津耕次郎の長男として福岡県に生れる。名の珍彦は記紀に登場する日本の神である椎根津彦の別名。葦津家は筑前筥崎宮社家のひとつで、大正年代には赤坂霊南坂の頭山満の隣家に住み、頭山をはじめ玄洋社社員と交友があった。1922年(大正11年)東京府立第五中学校に入学し、在学中にクロポトキンバクーニンらの社会主義に傾倒した。周囲はこれを心配し、卒業後は親のすすめで國學院大學に進んだ。別に東京外国語学校(現:東京外国語大学)にも入学するが、いずれも退学した。1928年(昭和3年)には福島高等商業学校(現:福島大学)に入学するも、翌年退学。この間、社会主義から、父と同じ「祭政一致の天皇国日本」実現を理想とする伝統保守の尊皇神道へ転じた。
1932年(昭和7年)、父の営んでいた事業を継いで社寺工務所の代表として神社建築業に従事する。この時期、頭山満今泉定助高山昇緒方竹虎内田良平井上孚麿らと交流をもち、太平洋戦争が始まる前は、この戦争を「必敗の戦い」であるとして反対運動を行い、開戦後は開戦の詔勅に示された「やむにやまれぬ独立国としての存続を確保する」戦争目的のみを守り続けることを主張するなど、独自の政治的活動を展開した。戦時中には日本の同盟国であったナチス・ドイツや、東條英機内閣の政策を批判する論文が発禁となり、逮捕された事もあった。
戦後直ぐ会社を解散し吉田茂内務省出身)、宮川宗徳(のち本庁事務総長)や、徳川宗敬(のち本庁統理)らを補佐し、神社本庁の設立に尽力し、さらに本庁の教学広報の一環として『神社新報』が創刊されると、主筆と共に発行母体の神社新報社〔2012年(平成24年)に、『次代へつなぐ葦津珍彦の精神と思想 生誕百年・歿後二十年を記念して』(神社新報社〈神社新報ブックス〉16)が刊行。〕の経営も引き受けた。
1968年(昭和43年)の退職後も執筆活動や後学の指導にあたり、国体護持・神社護持運動の最前線にあって、神道界や民族派運動(日本青年協議会日本を守る国民会議など)に大きな影響を与え続けた。一方で戦時中自らが批判していた東條らA級戦犯の合祀には敗戦の責任から疑義を呈していた〔靖国 「戦後」からどこへ3 神道史大御所の論文 「A級合祀」に疑義 毎日新聞東京版朝刊 2006年8月8日付〕(なお、靖国神社は神社本庁の別表神社ではない)。1992年(平成4年)、鎌倉市の自宅にて死去。享年82。
葦津との論争の経験もある橋川文三は、葦津を「保守派中の先鋭なポレミスト」と評した上で、その天皇制論を「伝統的右翼者流の水準をこえたものとして注目される」とし、天皇制の問題を欧州政治思想史の研究を背景とする比較制度論的見地からとらえようとする、いわば「国体論」の開かれた形態を追求する点が特徴である〔橋川文三の「解説」(『戦後日本思想大系7 保守の思想』より、筑摩書房)〕としている。
朝鮮文化にも造詣が深く、日本統治時代の朝鮮における独立運動家だった呂運亨とも交流があった。また、『思想の科学』編集者でもあった市井三郎鶴見俊輔、論客竹内好などとも思想的立場を超え交友があり、『思想の科学』にもしばしば執筆していた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「葦津珍彦」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.