|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 蒲 : [がま] 【名詞】 1. bulrush 2. cattail ・ 生 : [せい, なま] 1. (adj-na,n,adj-no) (1) draft (beer) 2. draught 3. (2) raw 4. unprocessed
蒲生 忠知(がもう ただとも)は、江戸時代前期の大名。出羽上山藩主、後に伊予松山藩主。諱は「ただちか」とも。 == 生涯 == === 家督相続 === 慶長9年(1604年)、陸奥会津藩主・蒲生秀行の次男として生まれ、家臣蒲生郷治によって養育される。〔『蒲生記』。『寛政重修諸家譜』。〕 慶長17年(1612年)、松平の名字を与えられる。〔村川浩平『日本近世武家政権論』、P103。〕 寛永3年(1626年)、上山藩4万石の藩主となる。 寛永4年(1627年)、兄の忠郷が嗣子なくして早世したため、本来ならば蒲生氏は断絶するところであったが、母正清院が徳川家康の娘であるということから、幕府の計らいを受けて忠知が家督を相続することを許された。ただし、会津60万石から伊予松山24万石に減移封されている。信心深かった正室の影響か、治世は良好で(暴君伝説も伝わるが、定型のものである)、寺院の建築、移築を行うなどの治績を残している。また居城である松山城の完成に特に力を注ぎ、二之丸を整備したと伝わる。 寛永7年(1630年)、再び勃発した重臣の抗争を裁いた。この裁判沙汰はなかなか決着がつかず3年にも及び、忠知は幕府の裁定を仰いで決着を図り、ようやくにして事態の解決を見た。結果として、福西・関・岡・志賀らの老臣が流罪・追放されるだけでなく、家老の蒲生郷喜の弟である蒲生郷舎も暇を出され、召し放つ事態に陥った。 寛永11年(1634年)、参勤交代の途上、京都の藩邸で急死した。享年31。死因は不明だが、兄・忠郷と同じく疱瘡が原因とも言われる。嗣子がなかったため、蒲生氏は断絶した。 伊予円福寺に肖像が伝わる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蒲生忠知」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|