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蒲生騒動(がもうそうどう)は、文禄4年(1595年)から慶長3年(1598年)まで起こった会津若松92万石の領主・蒲生家のお家騒動。 なお、蒲生氏郷の孫蒲生忠知の死後、無嗣断絶に至ったお家騒動もまた、蒲生騒動と呼ばれている。 == 経歴 == === 発端 === 文禄4年(1595年)2月、会津若松の城主・蒲生氏郷が40歳の若さで死去した。このため、氏郷の嫡男である秀行が家督を継いだが、まだ13歳の若年であった。このため、秀行に代わって蒲生家の政務を執行する補佐役が必要となった。このとき、その補佐役となったのが、蒲生郷安という人物である。 この郷安は、もとは六角氏の家臣であったが、六角氏が滅亡した後、氏郷の家臣となった人物である。氏郷は郷安を寵愛し、岩瀬郡の長沼城に3万5000石を与えて厚遇した。それほど有能な人物である。ところが郷安は氏郷存命中から豊臣秀吉の最側近である石田三成と誼を通じていた。(このため、一説に郷安が三成の意を受けて氏郷を毒殺したのではないかという説もなされている。ただ、毒殺説自体は現在ではほぼ否定されている)。 九戸の乱後に氏郷が加増された頃から、蒲生家における家老職にあたる仕置奉行の筆頭として政務を執っていた郷安であったが、文禄の役で氏郷が名護屋に出陣している際に、会津で重臣の蒲生郷可、蒲生郷成らと一触即発の事態を招くなど、家中では対立する人々が多かった。 氏郷の死後、政務を独占したため、蒲生郷可、蒲生郷成、それに小姓組の筆頭格であった亘理八右衛門らと完全に対立するに至った。 ところが郷安は事もあろうに、八右衛門を会津若松城(一説に、蒲生氏の京都屋敷)に誘き寄せて上意討ちとして斬殺してしまったのである。これに激怒した蒲生家譜代の家臣・町野繁仍らは郷安を暗殺すべく、軍勢を集め、両派は一触即発の事態となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蒲生騒動」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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