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蓋 延(がい えん、? - 39年)は、後漢の武将。字は巨卿(きょけい)。漁陽郡要陽(河北省豊寧満族自治県)の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の11位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 ==事跡== 身長8尺(184センチ)、300斤(66キロ)の強弓を引いた。幽州北辺は烏桓との境であるため勇力を尊ぶ地方で、蓋延も侠気で知られていた。郡の属官、州の従事となった。彭寵が漁陽の太守となると、蓋延は営尉となり護軍都尉を兼ねた。王郎が挙兵するに及んで、呉漢と共に謀って、劉秀に帰順した。同郡の呉漢・王梁、更に上谷郡の将景丹・寇恂・耿弇と共に、王郎の軍を撃ち、広阿で劉秀の軍に合流した。偏将軍に任じられ、列侯に封じられ、従いて河北を平らげた。劉秀が皇帝に即位するや蓋延を虎牙将軍と為した。 建武2年(26年)4月、四将(馬武・劉隆・馬成・王覇)を率いて、天子と号した梁の劉永を囲んだ。元更始帝の将であった蘇茂は蓋延と仲が悪く、淮陽太守を斬って広楽に拠って劉永についた。6月、蓋延は雎陽を落とし、劉永は譙へ奔った。12月、蓋延は劉永を沛の西に破った。蘇茂・佼彊・周建、軍を合わせて劉永を救援するも、蓋延に破られ、蘇茂は広楽に走り、佼彊、周建は劉永に従って、湖陵に砦した。 建武3年(27年)4月、光武帝は呉漢に七将を率いさせ、蘇茂を広楽に囲んだ。周建は蘇茂を救援するも、共に敗れ城を捨てて湖陵、劉永の元に戻った。雎陽は劉永を再び迎えた。呉漢は蓋延と軍を合わせ、これを囲んだ。7月、城中の食が尽きて、劉永・蘇茂・周建は逃れる。劉永の将慶吾は劉永を斬って降り、劉永の弟劉防は城を挙げて降った。蘇茂・周建は劉永の子、劉紆を立てて梁王とした。 建武4年(28年)春、蓋延は周建・蘇茂を攻め、董憲と留の下に戦ってこれらを破り、龐萌を率いて西防を攻め落とした。再度、周建・蘇茂を彭城に破り、周建・蘇茂は逃走した。7月、董憲の将賁休は蘭陵城を以って降るが、董憲はこれを囲んだ。蓋延は龐萌を率いて賁休を救わんとするも、光武帝の指示に従わず、返って董憲の計略に嵌って勝てず、蘭陵は董憲に落ち、賁休は斬られた。 建武5年(29年)3月、龐萌は董憲を撃つ詔書が蓋延独りに下り、自分に及ばなかったことを蓋延の誹る所と疑い、遂に反して楚郡太守を殺し、董憲についた。7月、光武帝自ら龐萌を討伐するに当たって、呉漢、蓋延らを召集し任城に会し、龐萌を桃郷に討った。昌虜を攻め、董憲を破った。 建武6年(30年)春、光武帝に命じられ、祭遵、耿弇、王常、馬武、劉歆(劉植の従兄弟)、劉向と共に天水より公孫述を討たんとするも、叛乱した隗囂に敗れ、隴を降った。光武帝は、蓋延を長安に駐屯させた。 建武9年(33年)、隗囂が病死するや蓋延は西方の諸勢力を討ち、平らげた。 建武11年(35年)、中郎将来歙に率いられ馬成と共に公孫述の将を河池、下弁に攻めるも、来歙が刺客に倒れて勝たず、蓋延は病気故に引き返した。将軍職のまま左馮翊の長となった。 建武15年(39年)、その職位のまま亡くなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蓋延」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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