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蓋鹵王(がいろおう、? - 475年)は、百済の第21代の王(在位:455年 - 475年)。先代のの長子であり、『三国史記』によれば諱は慶司。また、近蓋婁王とも記され、『日本書紀』には加須利君(かすりのきみ)、『宋書』には余慶の名で現れる。455年9月に先王の死去に伴い、王位についた。子に文周王、余昆支。 == 治世 == 中国南朝と通じるとともに新羅・倭国と同盟(羅済同盟)して高句麗に対抗するという、百済の伝統的外交政策を維持するのに努めた。北朝に対して高句麗を討伐することを働きかけるが失敗し、却って高句麗の侵攻を招いた。その結果475年には首都慰礼城(ソウル)を陥落させられ、王自身は戦死することとなった。 ;宋との通好 457年(大明元年)10月には宋の世祖より<鎮東大将軍>の爵号を受けただけでなく、458年には自ら百済国内で与えていた家臣団の仮の将軍号を世祖に認めてもらっている。宋の側でも北魏への対抗のために、北魏及び高句麗の背後を牽制させる意図から、百済に対して高い評価をもって待遇した現われでもある。471年にも宋に対して朝貢を行なっている。 ;倭国との通好 461年頃、弟の軍君昆伎君を倭国に人質として送りよしみを通じた。なお、『日本書紀』には、昆伎君が倭国に向かう際に伴った婦人が筑紫の各羅嶋(かからのしま)まで来たときに王子が生まれたので百済に送り返されたこと、その王子が武寧王であることを記している。詳しくは「武寧王#日本書紀の記述」を参照。 ;北魏への接触 近肖古王以来100年にわたって、中国南朝とのみ通好してきた百済であったが、蓋鹵王に至って初めて北魏への接触を図った。472年(延興2年)には北魏に対して上書して高句麗の非道を訴え、北魏が高句麗を討伐することを願い出た。北魏は高句麗・百済を視察させるために使者邵安を送ったが、邵安は高句麗から百済に行くことを阻まれ、やむなく北魏に帰国した。北魏は高句麗に対して叱責こそしたものの、結局のところ百済の願いは聞き入れなかった。 ;高句麗の工作 百済への侵攻をもくろむ高句麗は、僧侶道琳をスパイとして送り込んできた。碁を好む蓋鹵王は碁の名手であった道琳を側近として身近に置き、道琳の勧めるままに大規模な土木事業を進め、国庫を疲弊させることとなった。国庫の空になったことを見届けた道琳は高句麗に戻って長寿王に報告し、475年9月、長寿王は好機とみて3万の兵を率いて漢城に攻め入った。 高句麗の出陣を聞いて、蓋鹵王は王子の文周(後の文周王)を諭して南方へ逃れさせた(あるいは新羅に救援を求めに行かせたとも言われる)。高句麗軍は漢城を攻め、蓋鹵王は城を逃れたが捕らえられ、阿且城(ソウル特別市城東区康壮洞)で処刑された。在位21年。この後、子の文周王は逃亡先で即位し、熊津(忠清南道公州市)に遷都することとなったが、475年をもっていったんは百済は滅んだものと考えられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蓋鹵王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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