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蓬莱社(ほうらいしゃ)は1873年(明治6年)2月(設立年月には異説あり)〔宮本1975、267頁。〕征韓論を主張して敗れ下野した後藤象二郎を中心に士族たち、島田組・鴻池組などの関西商人、上杉・蜂須賀などの旧大名らなど後藤象二郎の幅広い人脈によって設立された会社〔。金融・為替業および高島炭鉱経営の他、海運業、洋紙製紙業、近代的機械精糖業、神岡鉱山経営などと幅広く業務を手がけたが、経営は不振で1876年(明治9年)8月 わずか3年半ほどの期間で倒産している〔宮本1970、100-106頁。〕。後藤の経営は大隈重信の言葉によると「士族の商売」であり〔小林2003、74頁。〕、前時代的であり過ぎたが、資本の有限責任性や持分資本家と機能資本家の分離など時代の先を行く面もあり〔宮本1970、106-107頁。〕、また洋紙製紙業、近代的機械精糖業は結果的には事業に失敗したとはいえ、それぞれ日本における嚆矢であり時代的意義は大きい〔樋口1956、269頁。〕。後藤は蓬莱社の事業失敗で巨大な借金をかかえるが、その後も政界で活躍する。銀座汐留にかかっていた木橋は蓬莱社の資金で石橋に架け替えられたため蓬莱橋と名付けられ、現代に蓬莱橋交差点としてその社名を残している ==設立の経緯== ===大阪商人の思惑=== #明治政府は通商司の管理下で通商・為替会社を置き、全国的商品流通機構の再編を目指していた。これらの通商・為替会社は中央銀行以下近代的な銀行が整備された将来には役割を終えるものと考えられていたが、明治初頭の時期では大阪商人たちが再編の波に乗る機会でもあった。通商・為替会社の傘下の機能を持つ三陸商社や三越商社、先収会社などの商社が設立されたのもこの時期である〔宮本1975、269-272頁。〕。 #農民からの年貢米を換金し流通させる貢米買受業務とそれから派生する公金取り扱い業務(為替方)は三井組・小野組・島田組などが扱っていた。貢米買受業務および無利子で巨額の公金を扱う為替方のメリットは大きかったが、その業務に参加するには巨額の資本と米穀流通や為替に関する知識も必要であった。鴻池などの大阪商人たちもこれらの業務に携われるだけの条件を備えており、大阪商人たちは共同で会社を作りそれによって貢米買受業務や為替方業務を担うことを期待していた〔。 #鴻池らの大阪商人たちは江戸時代、大名家に多額の貸し付けをしていたが、明治維新によって幕藩体制が崩れても各大名家への膨大な貸し付け(旧藩債)は残っていた。大阪商人たちはその旧大名たちの債務を新政府が引き受けることを期待し、明治元年-2年大阪府知事を務め接触のあった後藤象二郎にそれを頼み、代わりに旧大名たちの債務を引き受けた新政府が払った資金を後藤の設立する会社に出資することを約束した〔佐々木1969、619頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蓬莱社」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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