|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 蓮 : [はす] 【名詞】 1. lotus
蓮浄院(れんじょういん、生年不詳 - 明和9年4月18日(1772年5月20日))は、江戸時代の女性。徳川家宣の側室。名は須免。別称に二之御部屋、新典侍局〔『幕府祚胤伝』に二之御部屋とあり、『以貴小伝』に新典侍局とある。〕。 == 経歴 == 父は園池公屋。養父は櫛笥隆賀。養母に西洞院時成の女。兄弟は園池実守。義兄弟には櫛笥隆成、櫛笥隆兼、八条隆英、東山天皇妃で中御門天皇の母・新崇賢門院賀子。 近衛熙子が家宣に輿入れする際に、上臈御年寄・大典侍〔『徳川幕府家譜』には大助殿とある。〕として仕えた。後に家宣の目に留まり、側室となる〔しかし熙子が家宣に輿入れしたのは延宝7年(1679年)のことであり、没年の明和9年(1772年)から逆算すると百年近くも開きがあるため、信憑性に乏しい。〕。 一説によると綱吉の死によって後ろ盾をなくした、柳沢吉保が須免を家宣に献上したともいう。また、吉保の側室・染子の親戚筋にあたる。 元禄17年(1704年)、家宣が将軍世子となり西の丸に移ったため、側室であるお須免も移住。宝永5年(1708年)には大五郎出産。 宝永6年(1709年)、家宣が将軍宣下。 宝永7年(1710年)、大五郎が3歳で早世。正徳元年(1711年)8月、虎吉を出産するが、3ヵ月後に早世。 正徳2年(1712年)、家宣が逝去。以後は落飾し蓮浄院と号した。法心院と共に馬場先御用屋敷へ移り、享保17年(1732年)に浜御殿に移転。 安永元年(1772年)、死去。上野寛永寺林光院に葬られた。法名は蓮浄院霊池慧華大姉。蓮浄院殿霊池惠萼大姉とも。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蓮浄院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|