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蓮田一五郎 : ミニ英和和英辞書
蓮田一五郎[はすだ いちごろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はす]
 【名詞】 1. lotus 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [いち]
  1. (num) one 
: [ご]
  1. (num) five 

蓮田一五郎 : ウィキペディア日本語版
蓮田一五郎[はすだ いちごろう]
蓮田 一五郎(はすだ いちごろう、天保4年3月5日1833年4月24日) - 文久元年7月26日1861年8月31日))は、幕末水戸藩士。桜田門外の変の襲撃者(桜田烈士)の一人。水戸藩寺社方手代。名は正美。幼名は仙之介。市五郎は誤記とされる〔常磐共有墓地の蓮田一五郎墓碑より。岩崎p123。〕。墓所は茨城県水戸市松本町常磐共有墓地。明治22年(1889年)5月靖国神社に合祀〔岩崎p120。〕。贈正五位
== 人物 ==
蓮田一五郎の父・蓮田栄助宗道は水戸の町方同心、扶持7石で私塾を開いていた。栄助は42歳で死去したので、一五郎の老いた祖父・蓮田栄吉が一家を支えた。栄吉は町方同心に再勤したが家計は苦しく、一五郎の母と2人の姉は裁縫の賃仕事をし、また一五郎も11、12歳から内職して家計を補っていた。孫の教育を疎かにしなかった栄吉は、玉川立蔵〔桜田烈士の一人、森山繁之介は蓮田一五郎と共に、文武を玉川立蔵と金子健四郎に学んでいる。岩崎p123。〕の塾に一五郎を入門させたが、一五郎は金銭が足りず十分に通えなかった。一五郎はこれらの窮乏があって朝4時に起き、夜は10時頃まで内職をしてもなお苦学に励んだ。一五郎は18、9歳頃に書道など年長者を驚嘆させるほど上達し、算数絵画も秀でて多芸だったようである。独学不可の武芸は貧困ゆえ我慢していたが、15歳頃から金子健四郎の道場に通い、上達早く3年程で人に秀でた腕前となって、無念流の印可を受けた〔水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。 〕〔岩崎p115-118。〕。
安政2年(1855年)6月、水戸藩軍用方小吏として出仕する。同年10月、寺社方に転ずる。職務上、静神社神職及び弘道館内・鹿島神社神官の斎藤監物を知り、その思想に非常に感化を受けた。斎藤監物は、かつて弘化元年(1844年)、徳川斉昭の隠居謹慎時、領内の神職を糾合して処罰解除運動に参加している。安政5年(1858年)、幕府大老井伊直弼により尊攘派をはじめとする反幕府勢力の弾圧(安政の大獄)が始まり、翌年斉昭が水戸での永蟄居を命ぜられた。一五郎はこれに憤激し、斎藤らとともに大老井伊直弼襲撃計画に加わった〔『近世義勇伝』、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。 〕。安政7年(1860年)2月11日、一五郎は江戸へ向かって家を出た。母は56歳、長姉は35歳、次姉は32歳、一五郎は26歳の時だった〔。
一五郎が安政7年(1860年)3月3日桜田門外の変に至る間に作った和歌が複数残されている〔。

たらちねにまたも逢瀬おうせせきなればねるまもゆめに恋はぬ夜ぞなき

あはれなりひるはひねもす夜もすがらむねにたえせぬ母のおもかげ

かはく間もあらでたもとのしぐるゝは母をこひしの涙なりけり
〔岩崎p275によると、一五郎が幽囚の間に母を思い、国事を憂う情を寄せた詩歌。〕

安政7年3月3日(1860年3月24日)桜田門外の変の直後、負傷した一五郎は同士と老中脇坂安宅邸へ自訴し、その夜に細川家へ、のち幕吏方へ引き渡された。細川家滞在中に、一五郎は桜田門外の変の襲撃の図〔岩崎p285、扉の頁にある絵。〕〔『桜田門外之変図』茨城県立図書館蔵。〕を描き残した。幕府からの尋問中、彼は幕吏の池田頼方より狼藉(桜田門外の変)の趣旨を問われ、委細を尽くしてある『斬奸趣意書』〔『斬奸趣意書』、桜田烈士、2014年4月閲覧。 〕〔太田p182-194。〕でご承知ありたい旨を述べた。幕吏側では前水戸藩主・徳川斉昭を罪に陥れるつもりで誘導尋問を繰り返したが、それを悟っていた一五郎の方は「もし前君(斉昭)の内命にて掃部頭様(井伊直弼)を討つなら水戸藩に立場ある武士が喜んで罷り出で、且つ討ち方もあるべき、なぜ軽輩の我々が出ずる事を得ましょう」と答えた〔岩崎p245。『蓮田市五郎筆記』(『評定吟味書』)による蓮田への尋問の詳細は岩崎p243-294。〕。また彼は獄中で、『蓮田市五郎筆記』〔この筆記を、岩崎英重は『評定吟味書』とも言っている。これらの書簡集は、塙重任から三条実美の手を経て、「忠魂義魄櫻田烈士蓮田市五郎遺物」と書簡集を納めた箱に大書され木戸孝允家にあったという。また塙はこの一五郎筆記(評定吟味書)を事前に写しておいたが、この写しは明治42年(1909年)11月28日栃木県庁で特別大演習の際、母姉への訣別書と共に明治天皇が閲覧したという。岩崎p285。〕にこの取調べの仔細を記した。彼はこの筆記を残した意図について、「幕吏の横暴はいうまでもないが、老公(斉昭)へ冤罪を帰そうとする気炎も幕府方にあり、自分(一五郎)の偽口書きを自分の死後に認められてしまわないとも限らない為、幕吏による取調べの大意を書にしたためた」と自ら記した〔岩崎p248。〕。彼はこの間、幾つかの詩歌〔岩崎p287-289。〕を残したがその中の一つに、次の歌がある。

世の為と思ひつくせし真心は天津み神もみそなはすらむ〔岩崎p289。〕

一五郎は文久元年(1861年)7月26日送られた伝馬町獄舎で、幕吏の手により同志ら6名と共に斬首された〔。享年29。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「蓮田一五郎」の詳細全文を読む




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