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蔡 廷幹(さい ていかん)は、清末民初の海軍軍人・政治家。清末は海軍軍人として活動したが、民国成立後は、政治家に転じ、外交部門で要職についた。字は耀堂。 == 事績 == 1873年(同治12年)、清朝の手配によりアメリカに留学する。コネチカット州ニューブリテンの中学を卒業後、マサチューセッツ州ローウェルの機械工場で働いた。 1881年(光緒7年)に帰国すると、天津水雷学堂に入学している。卒業後は大澧口砲台魚雷艇管帯となる。1894年(光緒20年)の日清戦争では、魚雷艇を指揮して日本軍と戦ったが、負傷して捕虜とされている。戦後に釈放されて水雷艇隊司令となった。1910年(宣統2年)に参将(大佐級)に昇格した。その翌年には、海軍部軍制司司長となっている。 1912年(民国元年)、高等軍事参謀、海軍中将となった。その翌年には、北京政府の塩務署塩務庁総稽査兼税務所会弁に異動し、以後、政治家として活動することになる。1914年(民国3年)、総統府礼官となった。袁世凱が皇帝に即位しようとすると、蔡廷幹はこれに不満を抱き、同じく袁に隔意を抱き始めた黎元洪や段祺瑞に接近している。 1917年(民国6年)、税務学校校長に任命された。その翌年には関税改訂委員会委員も務めている。1921年(民国10年)、ワシントン会議中国代表団顧問をつとめる。同年8月には中国紅十字会副会長に就任した。その後も、関税特別会議準備処会弁、揚子江水道討論委員会副会長、五・三〇事件中国側調査委員会委員長を歴任した。 1926年(民国15年)7月、杜錫珪内閣の署理外交総長兼関税会議全権代表に任命されたが、わずか3か月で辞任した。1931年(民国20年)、北平に住居を定め、清華大学、燕京大学で中国文学について教鞭をとった。 1935年(民国24年)9月24日、北平で死去。享年75(満74歳)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蔡廷幹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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